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帽子をめぐる迷走

身体方面でのズレがもう一つ。というか一体いくつ出てくるのか。自分でも悲しくなってきたが、そこはごまかさずに全てさらけ出したいと思う。

あなたは帽子は好きだろうか。

いやいったい急に何だと思われるかもしれないが、私はわりと好きだ。

特に、大して高いものでもないのに、かぶっただけでちょっとおシャレ気分になれる手軽さがいい。かぶる帽子によって気分も変えられる。TPOに合わせて、いろんな帽子をかぶる楽しみもある。



幼少のころは阪急ブレーブスの帽子をかぶっていた。これは別に阪急ファンだったわけではなく、ただ当時の小学生のたしなみとして、野球帽は日射病予防として必須であり、子供っぽいキャラクター帽子を除けば当時の品揃えはほぼプロ野球帽子に限られていたからで、野球嫌いだったわたしは12種類の帽子の中からとりたてて特徴もなく無難な阪急のそれを選んだ、というだけの話である。

中学、高校のころはほとんど帽子をかぶらなかった。通学時の学帽が関の山だったが、理由はよくわからない。単に面倒くさかったのだと思われる。

しかし大学に入って一人暮らしを始め、ひとつここは女子にモテたい。とお洒落にも気を使い始めるのだが、そこで帽子は大変重宝した。貧乏学生にも数千円で買え、簡単におシャレをした気分になれる便利アイテムだった(なお同様のアイテムとしてサングラスがあった)。おシャレし始めの初心者にありがちな背伸び感といえるが、このあたりの恥ずかしさはもう恥ずかしがり切ってしまい、今となってはもはや他人事のようである。まあとにかく大学デビューの兄ちゃんが頑張っておシャレに挑んでいると思ってほしい。



そんな大学生となり、秋も深まったころ、茶色いハットを買った。そのまま被って歩いた。ショーウインドウに自分の姿が写っている。

どうにも座りが悪い。帽子が頭にフィットしていない感じがする。

ファッション誌のグラビアでは、しっかりと頭にバランスよく載っている帽子が、自分の頭へ来ると、なぜかよそよそしい。しっかりと頭を包まず、おざなりにちょこんと頭頂部に引っかかっているだけ、という感じだ。

なんのことはない、これはもっと深くかぶれば良いのだ、と思い、両手で帽子をぐいと掴んで頭を押しこんだ。

きつい。

なんというか、頭にベルトを巻かれてギュンギュン締め付けられているような感じだ。とても快適とは言い難い。三蔵法師にお経を唱えられた悟空のような心持ちである。ウインドウのシルエットを見れば、帽子のお釜部分がパツパツに張り切っていて、今にも破裂しそうな緊張感を生み出している。出かけるときにふんわりセットした髪は帽子と頭皮の間で真空パックのように圧縮されている。なにかとてもまずい感じがする。

あわてて帽子を取ったが、もうタグは切ってしまって返すわけにもいかない。仕方ないのでそのまま帽子を浅くかぶる着こなし、という体でかぶり続けたが、なぜか尋常ではない圧が髪にかかるらしく、前頭部に帽子の縁のあとがくっきりクセづいて残ってしまう。遠目にみると透明のボウルを浅くかぶっているような感じの髪型になり、大変にかっこ悪い。

その後も、いくつかの帽子を買い求めて試してみたが、かぶった時の気分はことごとく悟空であった。無理をしてかぶれば頭が締め付けられる。浅くかぶれば変なクセが髪に、ということが続き、いつしか帽子は私にとって鬼門となった。そんな私が唯一かぶれる帽子がニットキャップであるが、それとてどうにも中身がパンパンに詰まった感じになる。頭を怪我したときの医療用ネットをかぶっているみたいだ。



そんなわけで私は帽子が好きにもかかわらず、以後の人生はそれを避けて生きてゆくことになったのだが、四十路をふたつみっつ過ぎたあたりで、どうしても帽子をかぶらねばならない状況に追い込まれた。ここから少し長くなるが頑張って読んでほしい。なお、読んでも特に教養とかが付くわけではない。申し訳ない。

それは、子供の運動会である。

いやべつにそれ自体は良いのである。平和なことこの上ない。青空の下でちっちゃい子供がきゃいきゃいと走り回る。大変に可愛らしい。

問題は、それが初夏の晴れた日の屋外で行われることであった。

初夏といえど、6月の晴天時の日差しはとても強い。すこし日に当たるだけで顔などは真っ赤になる。日焼け止めは欠かせない。

ただ、日焼け止めではどうにもならない箇所がある。

頭皮。

頭皮である。

無帽であると、6月の無遠慮な日光がたっぶりと紫外線を含み、毛髪の隙間をくぐり抜け、頭皮をグサグサと刺しまくるのである。

ここは帽子が欲しいところである。当然よその保護者は思い思いの帽子をファッショナブルに着こなし、万全のUV対策をしておられる。帽子。かぶりたい。帽子。いいなあ。しかし私には、私の頭には帽子は似合わないのだ!


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流石にこの頃には気づいていた。私の頭は人より少し大きいのではないかと。

なぜって、この世に売られている帽子がことごとく私の頭には合わないからだ。

気づいたときは悲しかった。とくに中身が詰まっているわけでもないのに、私の頭はどうしてムダに大きめなのだ。顔だってとくにデカすぎるというわけではない。身長に対して標準的な顔の大きさだと思う。頭の鉢がひらいているわけでもない。バランスが悪い感じでもない。なのになぜ帽子が微妙に合わないのだ。なぜ微妙に大きいのだ。なぜだ。なぜなのだ。私からおシャレという名の天竺がまたひとつ遠ざかっていくのを感じた。

そのように帽子とは決別した身である、と自覚していた私は、6月のギラつく太陽に無謀にも無帽で挑んだのである。

甘かった。

日向に出た瞬間、私は後悔した。感じるのである。頭髪の隙間から日光の野郎が私の頭皮を焼き尽くしてゆくのを。しばらく日向に居ようものなら、つむじの前あたり、頭頂部の頭皮が炙られているようにジリジリし始める。私の、私の頭皮が焼けてゆく。毛根が滅んでいく。これはまずい。

私はすばやく判断した。カバンからタオルを取り出し、さりげなく頭にかぶせた。なんとか頭皮に到達する紫外線は弱められ、毛根への刺激は低減された。ただし、見た目はお世辞にもお洒落とは言えない。うっかりすると農作業の合間に休憩しているお父さんである。背に腹は変えられないとはいえ、ちょっと恥ずかしい。

そしてその日の入浴時、異常に増えた抜け毛に私は気づいてしまう。紫外線に焼かれて力尽きた毛髪を前に、これはどうにかしなければならぬ。なんとかして私の頭が入る帽子を探し出し、これ以上の犠牲を防がねば、私(の頭髪)の未来はない、と決心したのである。



まずは尋常の帽子屋に行き、手当たり次第にサイズの合う帽子を探した。結果は虚しかった。壁にかかっている帽子がすべて悟空の輪っかに見えた。

そうだ、アウトドアショップに行こう。あそこなら大きめの帽子もあるかも知れぬ。と思い、大きめの店舗にいってみた。帽子コーナーを探すと、大小さまざまの帽子がおいてある。サイズもフリーなどという無責任なものではなく、きちんとSML、LLの4種類ある。これは期待できるかも知れないぞ。

しかしここでも駄目だった。Lはおろか、私の頭はLLの帽子にすらまともにかぶれないのだ。なぜだ。なぜなのだ。私は絶望した。もうだめだ。もうだめだ。

そこにゆけば、どんな頭も入るというガンダーラのような帽子屋さんはないのか。どうしたらゆけるのだろう。教えてほしい。私の大頭の中にタケカワの歌声が鳴り響いた。



ネットで調べたが、実はそのような帽子屋さんがあるにはあった。ただし名古屋だった。物理的にはインドほど遠くはないが、心理的にはインド並みに遠い。わざわざ飛行機で出向くのは三蔵並みの決心がないと無理だ。

と、調べている過程で、実はいわゆる「大きいサイズの店」に大頭の人用の帽子も置いてあることを知った。これなら割と近くにもある。行ってみると、広い店内には太めの方のための大きい服があれこれ飾ってある。とくにデブデブしているわけでもない私がこの店をうろつくのはなんというか、場違いでほんとすみませんという申し訳無さが先に立ってしまうのだが、しかし私だって大きいのです!頭が大きいのです!と店の人に訴えて回りたい気持ちになる。



帽子は各種豊富に取りそろえてあった。おそるおそるかぶってみると。

おお…。

入る!入るぞ!

私は歓喜した。あの帽子もこの帽子も私の頭が入る!もうあのパツパツも、悟空の輪っかも気にしなくてよい。かぶり放題である。すばらしい。サイズを気にせず好きな帽子がかぶれるのである。福音とは取りも直さずこういうものではないのか。私は思った。

これであの悲しみから逃れられる。良かった。本当に良かった。としばしの喜びのあと、私は無理なくかぶれるサイズの麦わら帽子を選び、これを買い求めた。これで安心だ。私も人並みに帽子をかぶれるようになったのだ。これで毛根も息災であろう。私と世界の間のズレが解消された、極めて稀有な瞬間であった。私は世界を信じた。



その興奮が落ち着いて、私はふと何気なく帽子のサイズを確認した。

4Lだった。

我ながら呆れるほかはなかった。4Lって。

いくらなんでも大きすぎではないのか。

その4Lという単位の分だけ、また世間がわたしからズレていった。



しかしそのようなデカ頭にもちゃんと入る帽子が用意されているというところに、私は世界の懐の広さをみたのであった。この世もまだ捨てたものではない。ありがとうこの世。サンキューこの世。欲を言えば普通の帽子屋にもできれば大きなのを置いといて欲しいと思う。それともそれは欲張り過ぎというものであろうか。

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