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【小説】下りた赤い幕の向こう

「よ。脚本家先生」
 私が声を掛けると、貝崎は長椅子から滑り落ちた。
「ぎぇッ」
「うわ、ちょっと、大丈夫?」
 白く滑らかな床に尻餅をついた貝崎に手を差し出す。貝崎は「へ、平気」と頬を赤らめて、私の手を取らずに立ち上がった。私は「ならいいけど」と返しながら、行き場をなくした手をぐいと伸ばしてストレッチにリサイクルした。
 スカートをそっと撫でつけて、貝崎は長椅子の端に座り直した。私はもう一方の端に座って「なんでこんなとこに」と周囲を見回した。
 廊下の突き当たりの横手、奥まった空間にぽつりと置かれた長椅子。近くの教室から興奮気味にざわめく声が聞こえる。
 窓から差す日の光はうっすらと赤く、貝崎の頬もうっすらと赤い。私が頭に着けたままのウィッグの髪は派手に赤い。
「クラスの連中、ずっと劇の話してるよ。衣装も脱がずに。大成功だったってさ」
「そう、だね。うまくいったと思う。みんなすごかった」
「貝崎も功労者でしょ。脚本書いた作家先生なんだから」
「……からかわないで、小宮さん」
「からかってないって」茶化してはいるけど。「本当にすごいと思ってる。観客にもウケてたじゃん」
 私の賞賛に貝崎は弱々しい笑みを返した。
 うつむき気味の薄赤い顔は、劇の成功を喜んでいるようには見えない。
 文化祭でクラス演劇をやると決まってから、今日の本番に至るまで、貝崎はどことなくおかしい。脚本を自作する熱意があるのに、役者の練習は見たがらなかった。「意見を聞きたいから」と強引に参加してもらった時は、お預けを食らった子犬のような切なげな顔と、梅干しを食べすぎたような酸っぱい顔を交互に浮かべていて、正直ちょっと面白かった。練習中も貝崎を見てたせいで「よそ見すんな」って周りに怒られたけど。
 怒られつつ懲りずに観察していると、貝崎の視線の大半が、主人公の想い人役の葛西に向けられているのが分かった。
 葛西の役はやけに葛西っぽい人物だ。葛西が言いそうな台詞を言い、葛西がやりそうな行動を取り、葛西が好きなネギトロ丼を劇中でモリモリ食べる。
 脚本をよく読むと、他の役もクラスの面々を参考にした印象はある。私の役、劇の主人公もちょっと私っぽい性格だ。でも葛西ほどそっくりじゃない。そこに貝崎の内心が垣間見える気がした。
「貝崎ってさ、好きなやついんの」
 何気ない調子で聞いた途端、貝崎の顔色が青、白、赤と高速で切り替わった。
 トリコロールカラーの変化を感心して眺めていると、貝崎は「いない、です」と極細の声でうめくように言った。分かりやすいやつ。
「あの、どうして、いきなり」
「やー、その、お節介かもしんないけど。貝崎、しんどそうに見えて」
 頬を掻きながら言うと、貝崎は微かに目を見開いた。
「勝手な推測だからさ、間違ってたらごめんだけど。特定の相手を意識して書いたんじゃないの。あの脚本」
 貝崎の脚本は、勘違いでこじれる恋愛模様をコミカルに描いている。主人公は想い人の言動を思い込みで誤解して、周囲を巻き込みながら盛大に一喜一憂するけど、最終的に二人はすれ違いを乗り越えて結ばれる。
 主人公には私っぽい特徴もあるけど、内気なところがあったり、表情がころころ変わったり、ロコモコ丼をモリモリ食べたり、貝崎っぽさもけっこう目につく。
 そして主人公の想い人は葛西そっくり。まあ、つまり、そういうことなんだろう。
「ううう……」
 貝崎は顔中真っ赤にして頭を抱えた。「ばれてたなんて、そんな、恥ずかしすぎる」
 椅子の上を緩やかに動いて、少しだけ貝崎との距離を縮める。貝崎の頬も耳も首筋も、今は夕日よりずっと赤い。私の頭上の派手ウィッグといい勝負だ。
「無理に言わなくていいけど、言いたいなら聞くから」
 柔らかい調子で言うと、貝崎は両手を膝に下ろした。
 教室の方から軽やかな笑い声が聞こえる。その音の隙間に、ささやくような貝崎の声が混じり始めた。
「……高校最後の文化祭、がんばりたいって思ったんだ。演劇は好きだし、脚本も書いてみたかった。最初はどう書けばいいか分からなかったけど、クラスのみんなを登場人物のモデルにしたら、筆が進むようになったの」
 だけど問題もあってね、と貝崎は力なく微笑んだ。
「モデルそのままだと、書きたい話と噛み合わないところも多くて。一番の問題は主人公。最初は小宮さんそっくりだったの。でも、こんな台詞言ってほしいとか、あんな仕草見てみたいとか、美味しいアボカド丼食べてほしいとか、勝手な願望ばっかり頭に浮かんで、ストーリーもめちゃくちゃになって……」
「んっ?」
 私は思わず口をすぼめた。想像していた話と何かが違う気がする。どうしてこの流れで、私の名前が出てくるんだ。アボカド丼は確かに好きだけど。
 揺れ始めた私の思考を置き去りに、貝崎の言葉は続いていく。
「理想像から離さなきゃと思って、主人公に短所を持たせたの。自分の欠点をイメージして書き直したら、やっと冷静に主人公を扱えるようになって。他の登場人物もあちこち直して、なんとか脚本をまとめられたんだ。主人公の想い人だけはストーリーにぴったりで、直す必要なかったけど」
 私は相槌も打てずに黙っていた。うつむいて話す貝崎の背中の角度を目測しようとしてしまうのは、現実逃避の傾向かもしれない。
「これでやっと、落ち着いて劇に向き合えるって思ってた。でも、主人公役が小宮さんに決まってから、また頭の中が願望だらけになったの。この台詞はこんな風に言ってほしい、あの場面はあんな風に演じて欲しい、お腹いっぱいアボカド丼食べてほしい……そんなことばっかり考えて、どきどきして、まぶしくて、演技してる小宮さんの姿、まっすぐ見ていられなくて……相手役の葛西さんが羨ましくて、嫉妬みたいな気持ちも湧いてくるし……こんなの、良くないよね、ごめんね……」
 涙ぐむ貝崎の声を聞きながら私は長椅子から滑り落ちた。
「ぎぇッ」
「わあ! だ、大丈夫!?」
 貝崎は椅子から立って私に手を差し出した。「平気、平気」と平静ぶって手を取らずに立ち上がる。実際は床が固くて打った所が痛いし、思考は混乱して全くまとまらなかった。
 自分が思い違いをしていたことは分かる。自覚がないまま核心に触れたことも分かる。その後が分からない。何を言えばいいのか、何をすればいいのか、何丼を食べればいいのか。丼は食べなくていいか。
 貝崎は行き場をなくした手を引き戻し始めた。寂しげな微笑が震えていた。
 気がつくと私は手を伸ばしていた。
 指先が指先に触れる。貝崎の目が見開かれ、頬にぱっと赤色が差した。
「帰りにさ。食べに行かない? アボカド丼」
 口走ってから耳が熱くなった。こんなタイミングで言うべき台詞とは思えないし、言葉の区切り方や抑揚が意図せず川柳っぽくなったのも気恥ずかしい。
 ふふっと小さな吐息の音がした。少し潤んだ貝崎の目元が柔らかく緩む。
 貝崎の指がわずかに私の指を握った気がした。勘違いかもしれないけど、勝手に肯定の返事と受け取って、私もわずかに貝崎の指を握った。
 貝崎の顔がまた赤味を増していた。夕暮れの光も派手なウィッグも追い越して、赤さの上限を更新し続けている。
 私の顔も熱さを増していた。貝崎の目には、貝崎と同じくらい赤く染まった顔が映っているんだろうか。
 まるい瞳を見つめても分からなくて、ただ余計に頬が熱かった。

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