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【小説】彼女が笑うゲーム

園生そのうさんって作り笑い得意だよね」
 情報学部棟三階の休憩スペースで欠伸をした瞬間、鹿倉小祥かくらこさちが声をかけてきた。
 こいつはいきなり何を言うんだ、と心中で訝しみつつ、表面的には曖昧な微笑を浮かべる。表情筋の繊細なコントロールによって、「気の抜けた仕草を見られた羞恥」と「言葉の意味を測りかねている困惑」を適切な比率で配合した微笑に仕上がっているはずだ。
 鹿倉はイスに座る私の傍らに立って、窓から差す午後の陽光を浴びながら、感情の映らない真顔でこちらを見ている。
 肩まで無造作に伸びた髪のあちこちで、ボサついた毛が跳ねている。黒地のTシャツに白のスキニー、肩掛けのバッグは暗い灰色。ほぼモノトーンの服装に、Tシャツの中央にでかでかと印刷されたネオンカラーのカリフラワーが奇怪な彩りを添えている。
 視線を返しても表情には全く変化がない。いつ見ても鹿倉の感情表現は希薄だ。仄暗い瞳や、血色の悪い唇、意外とつつき甲斐がありそうな頬をいくら眺めてみても、丸っこい頭の内側にある思考や感情を推察するのは難しい。あまりの難解さで学生たちを震え上がらせている峰内教授のレポート課題といい勝負だ。
「えーと……そう見えるかな? いつも無理して笑ってるつもりないけど」
 やんわりと否定を返しながら、視界の端で周囲を確認する。丸テーブルとイスが並ぶ室内には私たち以外に、苦悶の形相でノートPCのキーボードを叩く学生と、端正な着物姿で「どうぶつしょうぎ」の対局を行う二人組がいるけど、見知った相手はいない。
 小さく息を吐く。こんな会話を知り合いに聞かれるリスクは低い方がいい。作り笑いが得意だなんて偏った主張が鵜呑みにされて、笑顔を演技と疑われるようになったら心外だ。せっかく自然な笑顔作りを心がけているというのに。
「謙遜しないで。園生さんの作りっぷりはすごい。見事な出来だしタイミングがいい。人付き合いが円滑になる笑い方を心得てるって感じがする」
 真顔のまま鹿倉がぺらぺらと続ける。口ぶりは軽やかで淀みなく、はっきりした発音が耳に残る。表情の乏しさに比べると、意外なほど鹿倉の口数は多く、寡黙そうな外見の印象と一致しない。声の抑揚が少なすぎて倍速のお経みたいな喋り方ではあるけど。
「からかわないでよ、鹿倉さん」
「真剣なんだけど」
 そう言って鹿倉が真剣白刃取りのポーズを取る。
「まあいいや。今、作り笑いが上手い人を探してて。『遊戯創作サークル』って知ってる?」
 入学直後にあったサークル合同説明会で見た覚えがある名前だ。先月の記憶を掘り起こしてみると、涼やかな風貌の先輩が活動内容を説明していた様子が脳裏に浮かんでくる。
「オリジナルの遊びとかゲームを作るサークル……だっけ」
「そう、それ。私そこに所属してて、今アナログゲームの試作を手伝ってるんだけど。そのゲームを、作り笑いが得意な人に遊んでみてほしいんだ」
 まさしく園生さんみたいな人に、と鹿倉が余計な補足を付け加える。
「ざっくり言うと、お題に沿った笑い方を演じるゲーム。サークル内のテストプレイだと全体的に演技力低いから、上手い人が混ざった場合のテストもしたくて。協力してもらえると助かるんだけど、どうかな。お礼の品も渡すつもり。『カサブランカ』のベリータルト」
 反射的に喉から出かけた渾身の「カサブランカァ!?」を口内に留めて、「あっ、それ、すごく人気の洋菓子店だよね」と軽い驚きと興味程度の反応に濾過する。
 カサブランカといえば高品質、高価格、高架下の三拍子で知られる店だ。ベリー系のフルーツを使ったケーキやパイが特に評判で、私は数えるほどしか食べたことがないけど、芳醇な甘酸っぱさと香ばしさを備えた口当たりはあまりにも素晴らしく、味わうたびに涙と唾液があふれて止まらなかった。
 花の意匠があしらわれた店内はシックで居心地がよく、客の心も懐もほぐれる。スピーカーから流れる繊細なピアノ曲も店の雰囲気にぴったりだ。定期的に電車の走行音でかき消されるせいで影が薄いけど。
 右手の指でへその周りをそっと撫でる。カサブランカの名前を聞いたせいで急速にお腹が空いてきた。口内では唾液腺も暴走の兆しを見せつつある。
 心の天秤はベリータルトに傾きつつあるけど、素直に頼みを引き受けるかは考えものだ。うかつな返答をすると「作り笑いが得意」なんて決めつけを肯定する結果になりかねない。
 色めき立つ菓子欲を抑えつつ、自信のなさを滲ませた弱々しい笑みを構築する。
「タルトは嬉しいし、ゲームも面白そうだけど、役に立てるかなぁ。私、演技なんてぜんぜんできないよ」
「そんなことない。園生さんは名優。本当は上半身ひねりまくりながらソプラノサックスみたいな声で笑うのに、普段はずっと大人しい笑い方してるんだから」
「…………」
 弱々しい微笑を浮かべたまま、私は無言でイスから立ち上がった。鹿倉の腕に抱きついて引き寄せ、周囲を窺いながら小声で耳打ちする。
「あんたに見せた覚えないんだけど」
「前に偶然見たことあって」
「いつ? どこで?」
「それは……テストプレイ手伝ってくれたら、答えようかな」
 馬鹿。馬鹿倉。いや私こそ馬鹿だ。情報漏洩をみすみす許して、そのことに今まで気づかないでいたなんて。
 いったい何が原因だろう? 私が素の笑い方をする相手は家族やごく親しい友達だけで、他の人がいる場では常に抑えている。特に「ひねりまくりソプラノサックス」級となるとよっぽどの大笑いだし、鹿倉が通りがかるような場所で見せるはずはないのに。
 無意識に歯の間から「ぐぎい」と奇妙なうなり声が漏れる。鹿倉は無機質な顔つきのまま、歯噛みする私をなだめるようにひらひらと手を振っている。
「……いつやるの」
「園生さんの予定に合わせる。できれば今週中だとありがたいけど」
「じゃあ今日」
 今日の分の講義はもう受け終わっている。この後は他学部の友達と連絡を取って合流するつもりだったけど、こっちの件を先に片づけないとカフェにもカラオケにも可逆圧縮アルゴリズムに関する課題にも清々しい気分で臨めそうにない。
 鹿倉は「分かった」とすんなり頷いた。
「一緒にサークル室まで来て」

 遊戯創作サークルは主に、工学部棟の裏手にあるサークル会館の一室で活動しているという。
 情報学部からは離れた位置にあり、私は普段行く機会がなくて馴染みがない。大人しく先導に従って構内を歩いていくと、鹿倉はいきなり生協の売店に寄り道をし始めた。
 売店で紙コップとパイナップル味の飴を買った後、鹿倉はようやく本来の目的地に足を向けた。途中でアデリーペンギンのお面を着けた集団とすれ違って二人同時に二度見したりもしつつ、鮮やかな新緑の木々に囲まれた道を通って、私たちはサークル会館にたどり着いた。
 割と最近改築された建物らしく、中に入ってみると小綺麗な内装の廊下や階段が広がっていた。ただ階段の横にあるスペースに、色あせた書類が詰まった段ボール箱や、あちこちに穴が開いた座布団、自撮り棒とテント用ポールが差し込まれた傘立てなど、雑多な物品が無造作に置かれていて、学生たちのズボラぶりが偲ばれた。
 鹿倉の後に続いて廊下を進み、一階の端にある部屋のドアをくぐると、長机を挟んで向かい合う二つの横顔が目に入った。
 パイプイスに座った人たちが、机の上のチェス盤を挟んで向かい合っている。チェスをしているのかと思ったけど、盤上のコマをよく見ると、どれも七福神を模したような形をしている。
「夜弦。祈利さん。名人・・連れて来た」
 謎のボードゲームに興じていた二人がこちらを向く。一人はサークル説明会で見た先輩だ。きりりと整った顔立ちをしていて、切れ込んだ目尻が涼やかな印象を生んでいる。ショートカットの髪からのぞく耳元や首筋の輪郭が綺麗で、気がつくと視線が勝手に吸い寄せられていく。頬杖をついた手の指先でイヤリングを撫でる仕草に、ちょっとだけ私の心臓が跳ねた。
 もう一人は対照的に、のほほんと温泉に浸かるカピバラみたいな顔つきだ。とろんとした目元と緩みっぱなしの口元がいかにも呑気そうな雰囲気を醸している。柔らかく波打つ長めの髪はやたらと毛量が多く、冬毛が伸び放題の大型犬を連想させる。
 あの後頭部に顔を押し当てるとヘタな枕より眠気を誘われることを、私は昔から知っている。どうして古橋祈利ふるはしいのりがこんなところにいるんだ?
「お? 蓮ちゃんではないですか」
 こちらを向いた祈利ちゃんが間延びした調子で「やあやあ」と手を振る。
「久しぶりですね。ずっと会いたくて泣き濡れていましたよ」
「そうだね。昨日一緒に映画館行って以来だね」
 冷ややかな視線を向けると、祈利ちゃんは「なんと切ない24時間だったことか」と全く濡れていない目元を指で拭った。向かい側の先輩がくすくすと可笑しそうに吐息をこぼす。
「園生さん、祈利さんと知り合いなの?」
「うん。従姉妹なんだ、私たち」
 鹿倉の問いかけに、「少し照れつつもにじみ出る親愛」を染み込ませた微笑みを添えて答える。祈利ちゃんには素を見せて構わないし、不本意ながら鹿倉にもバレているけど、もう一人の先輩がいる以上この場の振る舞いに気は抜けない。あの素敵な先輩にはぜひ、よく笑って人懐っこい快活な好人物という印象を抱いていただきたい。
 祈利ちゃんがわずかに口角を持ち上げる。たぶん今夜あたり、祈利ちゃんの家の猫が私の頭に乗ってきた時の写真が「nekokaburi.jpg」として送られてくるだろう。しかし今気にするべきは未来のからかいよりも現在の体裁だ。
 まだ名前を知らない先輩に視線を移す。はにかみと好意を織り交ぜ、眼輪筋も大頬骨筋も諸々の顔の筋肉も駆使して、花びらのようにふわりと笑顔を咲かせる。
 視界の右側で祈利ちゃんが「気合入ってますね」とでも言いたげに口の端をにやにやと緩ませている。気が散るから今は鹿倉の無表情を見習ってほしい。
「あの、初めまして。園生蓮架そのうれんかです」
八十島夜弦やそしまよつるです。よろしく、園生さん」
 先輩が颯爽とした微笑を浮かべる。低めの落ち着いた声が耳に心地いい。
「鹿倉さんにお願いされて来ました。ゲームのテストプレイを手伝ってほしいって」
「助かるよ、ありがとう。小祥から聞いたけど、なんでも演技の名手だそうだね」
 祈利ちゃんが口元を押さえて肩を震わせる。引きつりそうな笑顔を維持しながら鹿倉を横目で見ると、鹿倉は真顔のまま視線を逸らした。
「そっ、それは違います。鹿倉さんは何か勘違いしてるみたいで……」
「確かに名手というのは大げさですね。蓮ちゃんも下手ではないですが、期待すべきはもう一人の助っ人だと思いますよ」
「君はいつも自信だけは満々だからなあ。当てにしていいものか」
「失敬な、不安なのはこちらですよ。まともに遊べるゲームなんですか? この『七福神ウォーズ』みたいに破綻していないでしょうね」
「一緒にしないでほしいな。そっちは勢い任せに作った失敗作。今回のは勢い任せに練り上げた傑作さ」
 二人が軽口を叩き合い、楽しげに声を弾ませる。私の演技力から話が逸れたことに安堵しつつ、仲睦まじい光景に若干の疎外感も感じつつ、鹿倉に「祈利ちゃんってここのメンバーなの?」と尋ねる。
「違うけど、たまに来てる。色んなサークルに顔出してるらしいよ。隣の部屋の鳥類研究会とか、その隣の南極同好会とか、二階の仮面劇サークルとか」
 そういえば入学の前後あたりに「サークル活動に興味があったら、あたしが色々案内してあげますよ」と言われた覚えがある。「お礼はさきいか一袋で構いません」とも。
「じゃあメンバーは八十島先輩と鹿倉……さんの二人だけ?」
「他にもいるけど今日はいない。元々人数多くないし、サークル掛け持ちとかバイトとかであんまり来れない人もいて。集まるのはたいてい二、三人って感じ」
 そうなんだよ、と八十島先輩がこちらに苦笑を向ける。
「いつも人手不足でね。だから君が来てくれて嬉しいよ、園生さん。さっそく始めていいかな?」
 気がつくと八十島先輩の手に、白いカードの束が握られていた。

 私たちは長机の両側に二人ずつ分かれて、卓上に置かれた五十枚ほどのカードの束を眺めている。
 机にはカード以外に、サイコロと紙コップが一つずつと、封を開けたパイナップル味の飴の袋が並んでいる。紙コップと飴はさっき鹿倉が売店で買っていたものだ。
 カードは百均とかで売っていそうな無地のもの。サイコロも白地のシンプルなやつだけど、四、五、六の面にシールが貼られ、それぞれ出目が一、二、三に上書きされている。
「これがゲームのコンポーネント。仮だけどね」
 八十島先輩が慣れた手つきでカードをシャッフルし、上から三枚めくって横に並べる。カードにはそれぞれ黒いペンで、「冗談を言われて笑った時」「落ち込む人を励ます時」「大変な作業が終わった時」と書かれていた。
「カードにはこんな具合に『笑いが起こる場面』がお題として書かれてる。可笑しくて笑う、嬉しくて笑う、社交のために笑う、訳も分からず笑う……色々な笑いの場面がね。このお題に沿った笑い方を、プレイヤーが演じていくんだ」
「ほう。なるほど」
 気のない相槌を打ちながら、祈利ちゃんがゆっくりと飴の袋へ手を伸ばす。私が手首を掴んでつまみ食いを阻止すると、祈利ちゃんは指をくねらせて「殺生な」と泣くふりをした。なぜか鹿倉も呼応するように指をくねらせる。八十島先輩が弾けるように笑い声を上げて、パシパシと指先で膝上を叩いた。
「それで、具体的なルールを、ふふ、説明すると。プレイヤーは一人ずつ順番に『演者』に選ばれ、それ以外のプレイヤーは『回答者』になる。演者になったプレイヤーは、まず山札から三枚のお題カードをめくる。それからサイコロを振るんだけど、その出目は他のプレイヤー、つまり回答者には見られないようにする」
 八十島先輩がサイコロを自分の前に置き、紙コップをひっくり返して被せる。紙コップを前後左右に動かすと、中でサイコロが転がる音が鳴った。先輩は紙コップの端をそっと浮かせて、私たちに見えないように出目を確認した。
「このサイコロは一から三までの目が出るようにしてあってね。三枚のカードを左から一、二、三として、出目に対応するカードが演者のお題になる。演者はお題の場面に合うような笑い方を考えて、回答者に向けて演技する。お題をどう解釈して、どう表現するかは演者が好きに決めていい。表情、声、息づかい、身振り等々、表現方法も自由だけど、意味のある言葉を発するのは禁止だ。あくまで笑い方の範囲で演じるってことだね」
 小さく咳ばらいをして、八十島先輩がイスの上で姿勢を正す。一瞬の沈黙の後、先輩は天井を仰いで両腕を左右に掲げ、やや固い声で「はーっ、ははっ」と大きな笑みを浮かべた。
「今、私はサイコロで選ばれたお題の演技を行った。さて回答者諸君、場にある三枚のカードのうち、私がどれを演じたか当ててみてくれ」
 なるほどそういうゲームか、と小さく頷く。高校時代にクラスメイトと、よく似たルールの演技系ゲームで遊んだことがある。あの時は回答を外しまくって散々だったから、どうせなら今日リベンジを試みるのも悪くないかもしれない。
 八十島先輩の演技を思い返すと、姿勢を崩す身振り、吐き出すような声音、喜びを帯びた笑顔、といった要素で構成されていた。回答の選択肢は「冗談を言われて笑った時」「落ち込む人を励ます時」「大変な作業が終わった時」。
 とりあえず「励ます時」は考慮から外していいだろう。励ましの笑顔なら優しさや気づかいといった繊細な要素を含めるだろうし、大仰な笑い声や身振りは採用しづらいはずだ。
 そして「冗談を言われて」も恐らく違う。可笑しくて笑う演技にしては、呼吸の乱れや体の震えがほとんどなかった。お腹を抱えるとか、両手を打ち合わせるとか、それこそさっきの先輩みたいに膝上を叩くとか、可笑しみ由来の笑いに連動しがちな動作もない。
 一見して感じたのは歓喜と疲労、解放感のニュアンスだ。素直に考えれば最もあり得る場面は「大変な作業が終わった時」。声と笑顔がぎこちなかったのが不安要素ではあるけど、それを踏まえても三番のカードが正解な気がする。
 私と同じく答えの見当がついたのか、はす向かいに座る祈利ちゃんが、人差し指でこめかみを叩いて「初歩的な問題ですよ」と名探偵を気取っている。
 正面の鹿倉は相変わらずの無表情だけど、私の視線に気づくと「灰色の脳細胞にかかれば自明」と別の名探偵を気取り始めた。ふふっと控えめに加工した笑い声をこぼす。真顔でおどけるシュールさも含めて、正直ちょっと面白い。
「そろそろ答えは出たかい?」
 八十島先輩が一同を見回す。自信満々に腕を組む名探偵たちへ苦笑いを捧げながら、私も「大丈夫です」と頷いて答える。
「じゃあ、同時にカードを指差してもらおうか。せーの」
 互いの視線が交錯し、三本の指が突き出される。そのうち二本は右端、一本は中央のカードを向いている。私と鹿倉が三番、祈利ちゃんが二番を選択していた。
「うそ、二番?」
 まずあり得ない回答だと思ったのに、祈利ちゃんは「どうやら私の一人勝ちですね」と堂々とした居住まいだ。
「確かにあたしも、普通に考えれば二番と思います。しかし弦ちゃんがそんな、ありきたりの演技をするでしょうか? 学内屈指の前衛派として名を馳せる弦ちゃんが?」
「馳せてないけどなあ」
「馳せてないんですか」
「馳せてないよ」
「馳せてないそうです」
 二人が声を重ねてけらけらと笑い出し、つられるように私の喉からひゅっと吐息が漏れる。鹿倉だけは顔色を変えないままフラフラと手を揺らしている。
「ふ、くく、ゴホッ。……では、正解を発表するよ」
 咳払いで笑いを収めて、八十島先輩が紙コップの底を掴む。
 ほんの少し間を置いて、コップが素早く持ち上がる。中身はもちろんサイコロが一つ。上向きの面に描かれていたのは、三つの小さな円だった。
「私が演じたお題は、三番の『大変な作業が終わった時』。園生さんと小祥が正解だ。おめでとう」
「やった」
 多分そうだろうと思ってはいたけど、実際当たるとちょっと嬉しい。鹿倉は「灰色だからね。脳細胞」とよく分からない感想を言っている。
「回答者は正解したら一ポイント、演者は正解者の数だけポイントを得る。今回の場合は園生さんと小祥は一ポイント、演者の私は二ポイント獲得するわけだね」
 八十島先輩が袋から飴を取り、私と鹿倉の前に一つずつ、自分の前に二つ置く。ゲーム中のおやつかと思ってたけど、点数チップ用だったのか。
「要するに、回答者はとにかく正解を当てる。演者は正解者が多くなるように分かりやすく演技する……ってゲームなんだけど、重要なルールがもう一つ。回答者全員が正解した場合、演者は一ポイント失う」
「えっ、マイナスですか」
「うん。つまり演者の最高点は二ポイント。二人に正解してもらうのが理想だけど、狙い過ぎると点数を失うリスクも高まるってことだ」
 シンプルな演技ゲームだと思っていたけど、意外に面倒な要素が出てきた。今回の八十島先輩の演技はかなり分かりやすく、祈利ちゃんがボケをかまさなければ全員正解していただろう。演じる内容が伝わらなくても伝わりすぎても駄目で、回答が適度に分かれるような塩梅の演技をしないといけない。勝ちを目指すなら頭を悩まされそうだ。まあ今回は別に勝つのが目的じゃないけど、熱心に遊ぶ姿勢を見せた方が八十島先輩の心象はきっといいだろう。
「一回の流れはこんな感じ。後は演者を順番に交代していって、各プレイヤーが計四回の演技を終えたら終了。それまでに得たポイントの合計で順位が決まる。……どうだい、ルールは分かってもらえたかな?」
「理解しましたよ。問われるのは演技力そして観察力。まさにあたし向きのゲームですね」
 さっそく外して無ポイントの人が意気揚々と頷く。
「大丈夫そうなら、このまま続きをプレイしていこう。分からないことがあったらいつでも聞いてくれて構わないからね。演者の順番は、時計回りにしようか。次は園生さんだね」
 八十島先輩が三枚のカードを重ねてどかし、サイコロと紙コップを私の手前へ滑らせる。
 笑みに初々しさを滲ませつつ「やってみます」と両手を丸めて握る。数十種のお題が眠るカードの山に手を伸ばした時、鹿倉がささやくようにそっと、だけど鮮明に透る声で言った。
「いつかの決着つけようか」
 いつかの決着? カードをめくりながら頭のどこかで記憶の波が弾ける。
 そうだ、決着。あの日の勝負、確かに決着はつかなかった。勝手に口の端が緩むのをこらえつつ、私は紙コップに隠れたサイコロを振る。

 高校時代、学校の行事で行った旅行での一幕は、今も心の中で鮮やかに色づいている。
 旅行先のホテルで同室になった数人の中に、日頃あまり交流のないクラスメイトがいた。鹿倉小祥という名前は知っていたし、何度か会話を交わしたこともあったけど、全然親しい相手ではなく、せいぜい顔見知りという程度の間柄だった。
 偶然なのか教師側の意図なのか、私と鹿倉を含め同室のグループには一つの共通点があった。全員やたらと早寝ということだ。十時半前後に寝る私でさえ遅い方で、十時前九時前は当たり前、中には夕食と入浴を済ませたら即寝るという睡眠巧者までいた。
 その性質を利用して、私たちはあるゲームを考案した。各自持ち寄った対戦型のアナログゲームやアプリゲームで競い、連続で一位を取った者から就寝を許される。早寝組の私たちにとって、これは過酷な耐久戦だった。今思えば楽しいというよりひたすら眠いゲームだったけど、旅行の夜のテンションが私たちを奇行に走らせたのだろう。
 勝者たちが続々とベッドという栄光を手にする中で、最後まで連勝できず残った哀れな二人がいた。私と鹿倉だ。二人ともゲームは下手ではなかったのに、あの時は思考も運も噛み合わず、押し寄せる眠気も相まって、いつまでも泥沼から抜け出せないでいた。時間はすでに十一時を過ぎていた。他の部屋の皆はまだ平気な時間帯だっただろうけど、私たちにとってはほぼ深夜だった。
 諦めて寝ればいいのに、私たちは律儀に勝ち負けを繰り返した。最後の方はあまりに眠くて記憶が曖昧だけど、私の方は快活な振る舞いを維持するのに精一杯で、ほとんど何も考えずゲームをしていた気がする。鹿倉はずっと真顔のままで一見平然としていたけど、何度も手を振ったり指を動かしたり、集中できていなさそうな所作を繰り返していた。
 だらけた戦いがしばらく続いたけど、結局どちらも連勝はできず、鹿倉がゲームのコマを置いた体勢で寝息を立て始めたのを契機に、不毛な耐久ゲームはようやくお開きとなった。
 眠りかけの鹿倉は、緩やかに手のひらを揺らしながら、ぽつりと言った。
「いつか」
 いつか。いつかまたゲームしよう? いつか白黒つけよう? 五日いつかくらい眠れそう? 言葉の先は分からないし、そもそも意識的に発した言葉ではないだろう。
 だけど妙に心に焼きついて、あの時の鹿倉の「いつか」と、ゆらめく手の残像が今も、私の記憶の海をゆらゆらと漂い続けている。

「ああ、ふふっ、あっははっ」
 声に可笑しみと一匙の共感を加え、派手ではないけど目立つ程度に顔全体を綻ばせ、人差し指を立ててわずかに傾ける。
 お題は「あるあるネタで盛り上がった時」。頷く仕草を加えるとより分かりやすいだろうけど、調整をしくじって全員正解を出すのは避けたい。他の選択肢は「変顔に噴き出した時」「欲しかった物をプレゼントされた時」。プレゼントをもらって喜んでいる様子にはまず見えないだろうから、変顔の方といい具合に散らばって欲しい。指差すような仕草が相手の顔を示す仕草にも見えるはず、という目論見はあるけど、上手くいくかどうか。
 回答者三人の選択が出揃う。あるあるが二人、変顔が一人。思い切り拳を突き上げたいところを、「やった」と無邪気に手を合わせる程度に留めておく。
 この二点は勝利のための必須条件だ。四巡目の途中まで来た現在、私の合計点は九ポイント。一位にあと一点の差まで詰め寄っている。ここから私が稼げる得点は最大で二点。一位は演者が残っているから、全員正解で点を失えば逆転があり得る。もし逆転できなくても、せめて同点一位は狙いたい。
 さっきの鹿倉の一言で、あの夜の不毛な情熱が再燃して、思いのほかゲームにのめり込んでしまっている。不本意に連れてこられた場だったけど、今はせっかくなら勝って終わりたい気分だった。
「最下位からの逆転優勝。ドラマチックな展開になってきましたね」
 現在ぶっちぎり最下位の祈利ちゃんが勇ましく微笑む。
 祈利ちゃんの点数が低いのは、演技に意外性がありすぎたからだろう。変顔一歩手前の笑顔、奇声と区別がつかない笑い声、奇行と呼ぶに相応しい身振り。どれを取っても意味不明で、正解者がほとんど出なかった。
「これは厳しいな。どうにか最下位は避けたいところだ」
 現在三位の八十島先輩が苦笑交じりに首の後ろを撫でる。
 ゲームが始まった直後は、制作側のアドバンテージも込みで八十島先輩が強そうと思っていたけど、意外に点数は伸びていない。
 演技はぎこちなくも素直で分かりやすかったし、回答も最初のうちは的確に当てていた。それでも苦戦したのは、祈利ちゃんの演技にウケすぎてずっと笑い転げていたからだろう。段々分かってきたけど、どうやら八十島先輩はかなり笑いのツボが浅い。
 場のカードを片づけて、サイコロと紙コップを正面に渡す。鹿倉はすっと短く息を吸って、私に真っ直ぐ視線を向ける。
 鹿倉は現在十ポイントで単独一位。演技系のゲームは不得手だろうと思っていたけど、意外なほど着実に点数を稼いでいる。
 とはいえやっぱり演技は全然上手くない。声は平坦だし、表情は動かないし、身振りも固くて単調。正解が分からなくて回答がばらけた結果、まぐれ当たりが出ることはあっても、高得点にはほど遠かった。
 致命的に思えるその弱点を、鹿倉は回答の的中率で補っていた。八十島先輩の笑い方はほとんど当てていたし、私に至っては全問正解されてしまった。さすがに祈利ちゃんの奇怪な演技には苦戦していたけど。
 鹿倉の仄暗い瞳を真っ直ぐ見つめ返す。懐かしい高揚が胸にある。あいつもそうだろうか。いくら見つめても表情は動かない。
「園生さん。覚えてる? あの時、最後のゲームは中断したけど、その前は私が勝ってた」
「……このまま鹿倉さんが勝ったら、二連勝だって言いたいのかな」
「そう、完全決着。私が先に寝させてもらう」
「ううん。今日は私の方が早寝だよ。十時前にベッドに入る」
「だったら私は九時前」
「八時半」
「八時」
「七時四十五分!」
 急に始まった睡眠時間オークションに、横から「何の話だろう」「就寝タイムアタックでもするんですか」と不思議そうな声が飛ぶ。私は取り繕うように即席の照れ笑いを浮かべた。頭では鹿倉の一挙一動に意識を向けていた。
 鹿倉が手早く三枚のカードをめくる。「気になる人の笑顔を見た時」「深夜テンションでハイになった時」「コメディ映画を観て笑い転げた時」。紙コップ越しにサイコロの転がる音が鳴り、やがて止まる。
 鹿倉が出目を確認して、少しの間沈黙が場に降りる。
「ぷおーっ。ぷおっ、ぷおう、ぷおーっ」
 抑揚のない声がサークル室に響き渡る。鹿倉は無表情のまま両腕を前に突き出し、だらりと垂らした手を小刻みに揺すっている。
 何だこれは?
 呆然とするうちに鹿倉が姿勢を戻す。これまで見た鹿倉の演技の中で、とびきり理解が覚束ない笑い方だ。そもそもあれは笑っていたのか?
 祈利ちゃんは腕を組んで「ほほう」と分かったような顔をしている。八十島先輩は呼吸を荒げながら膝上を叩いている。
 深く呼吸をしながら、鹿倉の怪演と三つの選択肢を頭の中で並べてみる。
 まず「気になる人の笑顔を見た時」は、さすがに除外していい気がする。つられて笑うとか照れ笑いとか、お題の解釈は色々あるだろうけど、いずれにしろああやって断続的に大声を上げる演技にはならないだろう。鹿倉の演技は拙いとはいえ、祈利ちゃんのようにあえて奇を衒うことはない……はずだ。
 次は「深夜テンションでハイになった時」。これはあり得る答えかもしれない。深夜テンションで昂った心理状態を、あの奇抜な笑い声で表現した可能性はある。
 それに思い返してみれば、あの旅行先での夜にも、鹿倉は頻繁に手のひらや指を振っていた。当時の私たちは実質的に深夜テンションの状態だったし、あれを鹿倉がハイになった時の動作と捉えるのは妥当に思える。
 なんだ、ちゃんと納得のいく答えがあるじゃないか。
 最後の「コメディ映画を観て笑い転げた時」は、もう検討の必要もないだろう。映画を観ている演技には見えなかったし、二番より筋の通った説明がつくとは思えない。
「そろそろいいかな」
 鹿倉が回答者たちの顔を見回す。祈利ちゃんも八十島先輩も、どこか自信を漂わせた顔つきをしている。二人が私と似たような推論をしたとすれば、もしかするとこの問題、全員正解の可能性もあり得る。
「せーの」
 号令が耳に届き、二番のカードを指差そうとした時、机の上に置かれた鹿倉の手元が目についた。
 ほっそりした色の薄い指先が、小刻みに揺れている。その指のゆらめく姿が、私の記憶の海にさざ波を立てた。

「どうして三番を選んだの?」
 隣を歩く鹿倉が疑問を口にした。
 赤く染まり始めた空の下、私と鹿倉はキャンパス内の舗装路を緩やかに歩いている。夕暮れ時の風は少しひんやりとして、ゲームで熱くなった頭を冷ましてくれる気がする。
 テストプレイが一通り終わった後、私たちはすぐに解散した。
 本当なら八十島先輩は、プレイの直後にゲームについてのアンケートを取りたかったらしいけど、電話で誰かに呼び出されて慌ててどこかへ行ってしまった。祈利ちゃんも別のサークルへ顔を出しに行き、私と鹿倉は二人で帰路についた。
 結局私は鹿倉に勝てなかった。四巡目の鹿倉の演技で、二番から急遽三番に変えて正解したのは良かったけど、単独正解だったから点差は埋まらず、その後の祈利ちゃんの演技が難解すぎて全員間違えて、鹿倉の一位が確定した。
「……鹿倉の指が動いてたから」
 ぶっきらぼうに鹿倉の質問に答える。
「え。どういうこと?」
「何となくだけど。あんたの手とか指が揺れてる時って、笑ってるのかなと思って」
 今日の記憶を辿りながら答える。根拠の薄い勘だけど、私が変なうめき声を出してる時とか、祈利ちゃんや八十島先輩がおどけた時とか、可笑しさを感じそうな場面で、印象に残るくらい鹿倉の手が動いていた気がする。
「だからあの時は、わざと私が引っかかりそうな演技して、こっそり面白がってたのかと思って」
 鹿倉の足が止まる。私も足を止めて「間違ってる?」と尋ねる。
「自分から教えた人以外に気づかれたの、初めてかも」
「八十島先輩は知ってるの?」
「うん。つき合い長いから」
 鹿倉が再び歩き始め、私も歩調を合わせる。私に気づかれてどう思っているのか、横顔からは何も読み取れない。視線を下げて手を見る。指先が微かに動いている気がするのは、風に揺られているだけか、それとも、どうだろう。
「突飛な演技に見せかければ、深夜テンションと間違えるかもって目論見だった。少なくとも鹿倉さんが間違えれば逆転はなくなるから、いい作戦だと思ったんだけど」
「まあ結局、逆転どころか同点も無理だったし……」
「それもそうだね。これで完全決着。今日は私が寝るまで寝ないでね」
「うっさい。とっとと寝ろ。健康的な生活リズムを保て」
 鹿倉の指がぐにゃりと動く。私の返しが多少ウケたと思っていいんだろうか。他の人との会話に比べると、まだ慣れない感覚だ。八十島先輩だったらもっと自然に、鹿倉の感情を読み取れるんだろうか。今度アンケートに答えるついでにコツを聞いてみよう。
「あんたも教えてよ。私の素の笑い方、どこで見たの? やっぱりあの旅行の夜?」
「夜じゃなくて次の日の朝。ホテルのロビーで、他のクラスの人と二人で笑ってた」
「うわ、そうか……あれ見られてたのか」
 うかつな過去の自分が脳裏に蘇る。確かにあの時、いつもより遅い時間に寝たのにいつもより早く起きてしまい、同じく早起きの友達とロビーで雑談をしていた。周りに人の気配がなかったし、眠くて気が緩んでいたのもあって、つい大笑いをしてしまった気がする。
「管楽器みたいな笑い声でびっくりした」
「よく言われる。トランペットとかサックスとか……あのさ、まさかだけど。あんたが演技でやってた『ぷおーっ』ってやつ」
「うん、園生さんをイメージしてた。でも本家みたいに上手く吹くのは難しいね」
「二重で私をおちょくってたわけか」
 憤怒を込めて鹿倉の頬を人差し指でつつく。予想以上につつき心地は快適で、ぷにぷにしているうちに憤怒は雲散霧消した。
「……ほんとにびっくりしたよ。綺麗に笑う人だと思ってたから」
 鹿倉がささやくように言う。
「変な笑い方だと思ったけど、やけに頭に残って、離れなくて。仲良くなれたらまた見られるのかなって考えもしたけど、勇気が出せなかった」
 今日までは、と鹿倉が跳ねて前に出る。ボサついた髪が風に乗ってなびく。
 振り向いた顔に表情はなく、夕日の赤に包まれて、手のひらだけが柔らかく揺れている。
 にっと私も笑って返す。鹿倉にふりまく愛想は尽きたから、何の工夫もしていない雑な笑顔だ。
「ま、あんたにはもうバレてるし。いずれ見せる機会もあるんじゃない」
「なるべく早いと嬉しいけど……あ、そうだ。カサブランカ」
「そうじゃん! 報酬のベリータルトはどうなってんの! よこせ!」
「落ち着いて。まだ手元にはないから、今度一緒にお店行こう。奢るよ」
「まあ……それなら許す」
 うまいこと遊ぶ約束に誘導された気がするけど、いいとしよう。
 結局のところ、私もあの時からずっと、鹿倉のゆらめくわらいかたが気になっているのは同じだから。
「ついでに映画館行かない? 昨日祈利ちゃんと新作のコメディ映画観たんだけど、めっちゃ面白くてさ。また観たい」
「いいね。鹿倉さんのソプラノサックス聞けるかな」
「映画館であんな大笑いしないってば」
 鹿倉の手が揺れている。私の顔も綻んでいく。

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