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【小説】幻滅してほしい先輩

「どう、尼崎さん。幻滅した?」
 開始早々大崩壊したジェンガの末路を片づけながら、船戸先輩が期待のこもった調子で私に尋ねた。
 崩してしまったのは私だけど、堂々の勝負の結果とはちょっと言いがたい。私がブロックに指を伸ばした時、テーブルの向かい側に座る先輩が突然、全く似てないアルパカのモノマネを披露してきて指運びが乱れてしまった。
「小ずるい勝ち方した上に、モノマネのデキもしょうもない。いい塩梅の醜態だと思うんだけど、どうかな、幻滅してくれた?」
「ええと……しました」
 散らばったブロックを集めながら頷く。「本当に?」とまっすぐな視線が私の顔に向けられた。
 宝石みたいにつややかな瞳と目が合う。凛々しい輪郭を描く目元のそばに、頬杖をついた長くしなやかな指先が添えられている。手の甲の隣を流れていく長髪は窓からの陽光を受けて、淡く柔らかく輝いて見えた。
 とてもまぶしいものを見つめている気がして、目の奥がチカチカした。寮の談話室は冷房が効いて涼しいのに、額からひとしずく汗がこぼれ落ちた。
 ソファの隅に置かれたカモ柄のクッションに視線を逸らすと、先輩は悔しげに「ダメか」とつぶやいた。
「だ、ダメじゃないですよ。ちゃんと幻滅しました」
「いや、してない。見れば分かる。尼崎さんって考えが顔に出るから」
「そんなことないです。幻滅してますし、顔にも出てません。ポーカーフェイスです」
「ほう。ポーカーフェイス」
 先輩はからかうように微笑んで、私の頬を人差し指でつついた。
 滑らかな指先に繰り返し触れられて、顔中の温度がどんどん上がっていく。頬の熱さを感じたのか、先輩が「ぽかぽかフェイスじゃん」と言った。ちょっと熱が冷めた。
 しょうもないことを言って満足したのか、先輩の指が私から離れていった。ほっと安心する気分と、指先の感触の名残惜しさと、自分も先輩の頬をつついてみたい欲求が、心の中でぐるぐる回って混じり合う。
「次はどうしようかな」
 先輩がジェンガの箱をリズムよく振り始める。流れるように動く洗練された手つきに、吐息をこぼして見とれてしまう。片づけを放棄して箱を振り始めた意味は全く分からないけど。
 あるいはこれも、先輩が目指す幻滅の一環なんだろうか。

 先輩は一時間くらい前から、変顔や変な動き、調子外れのアカペラ熱唱、うろ覚えの寿限無など、色々な手を尽くして私を幻滅させようと試みていた。
「尼崎さんは私を美化しすぎてる」
 一連の奇行を始める前に先輩は言った。
「いつも私を褒めてくれるし、立ててくれる。何をしても尊敬のまなざしを向けてくれる。どんな言葉も真剣に受け止めてくれる。近寄ると緊張して固くなって、でも嬉しそうに微笑んでくれる」
 恥ずかしさのあまり私は「ぎい」と錆びたドアみたいな悲鳴を漏らした。指摘はほとんどその通りで、否定できずにただ赤面するしかなかった。
 確かに私は先輩に強い憧憬を抱いてきた。四ヶ月前の入寮日、不安と緊張で微振動し続ける私に、優しく声をかけてくれた時から。
 先輩のあらゆるところに魅力を感じた。落ち着いた声、穏やかな喋り口、凛とした容貌、引き締まった体躯、食べ物の好み、カラオケの選曲、登録しているサブスクの種類、記憶だけで描いたご当地キャラの再現度、何もかも私が素敵だと感じる理想像に合致していた。こんなに理想的な人がいるはずないと何度も頭を抱えたけど、いるものはいるのだから仕方なかった。
 その印象からずっと変わらず、先輩の私に対する振る舞いは常に優しく颯爽として、いつまでも理想のままだった。
 だけどその振る舞いは「カッコつけてただけ」だと先輩は首を振った。
「あんまり慕ってくれるから、つい調子に乗ってがんばっちゃったんだけどね。でも、尼崎さんとは寮でも大学でも顔合わせる機会多いしさ。お互いにもっと素をさらして、打ち解けたつき合いしたいなって」
 だからね、と先輩は涼やかな微笑を浮かべた。
「これまでのイメージ壊すから、いったん幻滅してくれる?」

 談話室の片隅にはダンボール箱がいくつか置かれている。
 中身は卒業生たちが後輩のために残していった、もしくは片づけを面倒がって放置していったもので、色あせた専門書や使い古しのボードゲーム、紙粘土製の招き猫、用途不明の丸っこい金具、使用期限が切れた湿布など、雑多な物品が詰め込まれている。
 寮生から宝箱またはゴミ箱と呼ばれるその箱を、さっきから先輩は熱心に物色している。私を幻滅させるための次の一手を、積もり積もった遺物の山から選び出そうとしているらしかった。
 ぺたんと座って後ろに投げ出された両足の、すらりとした輪郭に目が行ってしまう。自分の頬を引っぱってむりやり視線を逸らしながら、どうしたら先輩に満足してもらえるだろうと思い悩む。
 先輩は的確に私の内心を見透かしていて、すごく恥ずかしいような、でもちょっと嬉しいような気分だけど、少しだけ間違っているところがある。
 先輩がいくらヘンテコな発言をしても、かっこよくない行動を取っても、私が幻滅することはない。
 私はすでにもう、先輩に幻滅しているから。
 理想の人だと感じて以来、気がつくと先輩を目で追うようになった。じろじろと不躾に見ないようにできるだけ堪えてはいたけど、眼球が勝手に動いて止められないこともあった。
 視界に先輩が入る率が増えれば、色々な人と接する先輩の様子を目にする機会も多くなる。
 観察眼にはあまり自信がないけど、それでも理性と眼球の間で綱引きをしながら眺めているうちに、自分に対する先輩の振る舞いが、他の人に対するものと必ずしも同じではないことを、少しずつ認識するようになった。
 仲のいい人が相手だと特に顕著だった。お腹を抱えてけらけら笑ったり、おかしな顔つきや動きでふざけたり、二の腕をつつきすぎて怒られたり、前後左右から次々ハグを繰り出してやっぱり怒られたり、自分の印象と全く違う、ひょうきんでいたずらっぽい先輩の姿がたびたび見られた。
 緩やかに、でも確実に、四ヶ月の時間をかけて、心に描いた幻想は崩れ去っていった。こんなに理想的な人がいるはずないと頭を抱えたこともあったけど、やっぱりいるはずなかった。
 だからもう幻滅させる必要はないと、伝えた方がいいんだろうか。でも「すでに幻滅してます」なんて失礼なことを言うのは申し訳ないし、だけど先輩は幻滅を求めてるわけだし、とはいえ自分の心情を説明するのも恥ずかしいし……。
 ぐねぐねと思考を蛇行させていると、不意に「ね、尼崎さん」とささやく声が耳元で聞こえた。
 口から「ビャッ」と奇声というか奇音が飛び出た。聞いた耳から反対の耳まで瞬間的に熱くなり、額から汗の雫が流星群のように滑り落ちていく。ぎこちなく首を回して声のした方を向くと、にやにやと唇をゆがめた先輩がいつの間にか隣に座っていた。人差し指にはめているウサギの指人形は、ダンボール箱から取り出したものだろうか。
「ごめんごめん、驚かせちゃったね」
「せ、う、先輩……」
「幻滅させてる最中に悪いんだけど、小腹空いてきちゃってさ。どっか食べに行かない?」
 先輩は指人形をぴょこんと動かして、甲高い声で「ハラヘッチャ」と付け加えた。妙な声色と抑揚に心をくすぐられ、噴き出すように笑いがこぼれる。先輩も相好を崩して、ふっふと楽しげに声を弾ませた。
 花咲くような笑顔がまぶしくて、呼吸を揺らしながら目を細めた。
 私はすでにもう、先輩に幻滅している。先輩は優しくてかっこよくて、だけど意地悪でヘンテコだ。都合のいい理想を当てはめたのは、身勝手な私の空回りだった。
 それでもどうして、今もまだ先輩から目を離せないんだろう。
 出会った日の凛々しく端正な微笑とは違う、緩み切った奔放な笑顔に、どうして心がざわつくんだろう。
 まだ幻滅が足りてないんだろうか。今日はできるだけ先輩につきあって、徹底的に幻滅させてもらった方がいいのかもしれない。
「あの、先輩。提案があるんです」
「ドンナンダイ」
 ウサギ人形の声で先輩が言う。声が震えそうになるのを堪えながら私は言葉を継いだ。
「大学のそばに最近できたお店があって、そこのパンケーキが美味しいって聞いたんです。えっと、もしよければ、行ってみませんか」
「パンケーキ! いいじゃん、行こ行こ。私もうすっかりハラヘッチャよ」
 ぽんと私の肩を叩いて、指人形ごしに頬をつついて、おまけに二の腕と脇腹もつついて、先輩は跳ねるようにソファから身を起こした。
 あまりに速くて脈絡のない指さばきに、呆れるような感心するような、できれば人形のない指で触れてほしかったような、絡まった感情を抱きながら私も立ち上がる。
「尼崎さん」
 鮮やかな声で私の名前を呼んで、先輩はにっと笑顔を咲かせた。それから何か言葉を続けるでもなく、談話室の出入口へ歩いていく。
「……船戸先輩」
 背中に向けて小さく呼び返してみると、また心がざわついて落ち着かない。
 ああもう、早く幻滅しなくちゃ。
 頬の熱を振り払うように、私は小走りで先輩の背中を追いかけ始めた。

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