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【文芸センス】芥川龍之介『蜜柑』①心を反映する導入

 今回から、芥川龍之介の『蜜柑』を取りあげます。『蜜柑』はとても短い作品で、それほど有名ではありませんが、芥川龍之介の堂々たる作品群の中にあってなお、この小品は明らかな異彩をはなって輝いています。

 まさに果物の蜜柑のような、甘く穏やかな美しさを味わうとともに、なぜこの小説が芥川龍之介の作品の中で決定的な意味を持つのか、その理由について解き明かしていきます。

芥川龍之介『蜜柑』

①心を反映する導入

青空文庫 芥川龍之介『蜜柑』


物語の導入

 『蜜柑』は、芥川龍之介本人とおぼしき男性の独白体で綴られます。

 ある曇った冬の日暮である。わたくし横須賀よこすか発上り二等客車のすみに腰を下して、ぼんやり発車の笛を待っていた。とうに電燈のついた客車の中には、珍らしく私の外に一人も乗客はいなかった。外をのぞくと、うす暗いプラットフォオムにも、今日は珍しく見送りの人影さえ跡を絶って、ただおりに入れられた小犬が一匹、時々悲しそうに、え立てていた。

作品冒頭

 この文章を読んで、語り手の男に対して、いったいどのような印象を感じるでしょうか?

 おそらく多くの人は、「もの悲しい気配」や「孤独と哀愁」など、暗く寂しい印象を抱くはずです。すくなくとも、男が旅行にでも行くみたいに、陽気に電車を待っているとは思わないでしょう。

 ところが、この文章の中に、「さみしい」とか「落ち込んでいる」など、男の心を直接的に描写した箇所はひとつもありません。この冒頭の文章で描かれているのは、「いつ、どこで、なにをしていた」という客観的な事実のみ。いわゆる情景描写なのです。

伝わる心

 しかし、それでも多くの人が、男の心に寂しさや孤独の色合いを見いだします。ということは、この情景描写の中に、そう思わせるための仕掛けが施されているということです。

 そう思われる箇所を太字にしました。

 ある曇った冬の日暮である。わたくし横須賀よこすか発上り二等客車のすみに腰を下して、ぼんやり発車の笛を待っていた。とうに電燈のついた客車の中には、珍らしく私の外に一人も乗客はいなかった。外をのぞくと、うす暗いプラットフォオムにも、今日は珍しく見送りの人影さえ跡を絶ってただおりに入れられた小犬が一匹、時々悲しそうに、え立てていた。

 「曇った冬の日暮」とはじまることで、我々の思い描く世界は、一気に墨色にぬりあげられます。そしてその世界の片隅に男の姿が描かれるのですが、繰り返し一人でいることが強調されます。

 そして最後、トドメと言わんばかりに、「檻に入れらた小犬」の痛切な鳴き声が描かれ、我々は恐怖めいたものさえ感じながら、物語の世界へと引き込まれていくのです。

 これは小説でとてもよく使われる手法で、そのときの主人公の心理を、外部の似つかわしい風景になぞらえて描くものです。簡単にいえば、主人公の心の色合いと現実の空の色を重ね合わせたり、主人公と小犬を同一視させるということです。

 このように、冒頭の文章で芥川龍之介は、情景描写を利用して、主人公の心持ちまでも描いているのです。

説明もする

 こうやって情景描写で我々の印象を巧みに操ったのですから、その後すぐに、物語の本題に入ってもよさそうなのですが、主人公の男は丁寧に自分の心の説明をはじめます。

これらはその時の私の心もちと、不思議な位似つかわしい景色だった。私の頭の中には云いようのない疲労と倦怠けんたいとが、まるで雪曇りの空のようなどんよりした影を落していた。私は外套がいとうのポッケットへじっと両手をつっこんだまま、そこにはいっている夕刊を出して見ようと云う元気さえ起らなかった。

作品冒頭

 ここでは、「疲労と倦怠けんたい」や「元気さえ起らなかった」など、男の心持ちを直接的に説明しているのが分かります。

 さきほどの情景描写を通じての描写は、たしかに物語の舞台を説明しながら、主人公の心境も表すという高度なものです。主人公の外的世界と内的世界が重なり、より強い印象を我々に与えます。

 しかし、この手法では、本当に主人公がそう思っていたのか、不確かな部分もあります。情景を利用した心理の描写は、読者の想像の域をでず、人によっても捉え方が異なるため、文章に曖昧さが漂います。

 そこで芥川龍之介は、情景描写のあとに直接的な説明を加えているのです。最初に印象深く情景を描写し、その後でもう一度きちんと説明するという、とても丁寧な書き方です。それによって、我々の心から曖昧な部分は消え、心置きなく、その後に続く物語を読み進めることができるようになるのです。

おわりに

 芥川龍之介の文章は技巧的で華麗ですが、決して難解なものではありません。むしろ、文豪の中では、極めて分かりやすい文章を書く人と言えるでしょう。

 それはひとつひとつの表現が達者なだけではありません。今回解説したように、情景描写と直接的な説明を織りまぜるなどして、読者を置き去りにしないよう工夫しているのです。

おしらせ

 言葉の持つ力を掘り起こし、文章表現に活かす『霊石典』を編集しています。言葉について深く学びたい方は、ぜひ、あわせてお読みください。

 この記事の他にも、過去にたくさんの文芸学習の記事を書いています。こちらからお読みください。


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