【ショートエッセイ】かげろうに消えた幻(本編無料)
じぶんで着ることはないのだが、和服が好きなので、町で着ている人を見かけると、とりあえず追跡する。
とくに女性の和服が好きで、何年か前、製法とか生地について、本を買って調べたりしたくらいだ。一反から一着分のパーツを余すところなく切り出す無駄のなさには痺れた。流行やブランドに呪縛された洋服のレディスファッションより、伝統に磨かれた美意識があって、紳士服のダンディズムと通じるものがある。
和服を着る人は少ないので、出くわすとしたら必ず不意打ちだ。
その日は六月にしてはかなり暑い日で、いつものように昼すぎに散歩に出たのだが、路面が白く反射して、すこし遠くも見えないほどだった。
駅前の古い町並みを歩いていると、そんな熱気の中を、数人の和服の女性が日傘を差して歩いているのが目に入った。一人ならまだしも、数人が連れだって歩いている。
こんなことはめったにない。
暑さに立ち昇る幻かと思った。
彼女らは細い路地を向こうへと歩いていた。私はカメラを取り出し、めいっぱい望遠にズームして、その後ろ姿を写真におさめた。しかし、二枚目を撮ろうとしたときには、その姿はもう、道の向こうに消えてしまっていた。
カメラをおろし道に立ちつくす。
ほんとうに幻のようなひとときだった。
その後、追跡はあきらめ、近くにある店に入ったのだが、そこで着物の女性たちが幻ではないと判明した。店の人によると、なんと彼女たちはさきほどこの店に来て、アイスコーヒーを買って帰ったそうなのだ。つまり、私と入れ違いになったわけだ。
「惜しかったなあ。もうすこし早く来てたら話を聞けたのに」
と思ったが、はたしてそれはどうだろうか。
店で会ってべらべらと話をしてしまったら、それこそせっかくの雰囲気が台無しだ。下手したら、知り合いだったりしかねない。
あれはかげろうに浮かんだ幻。
古い路地に焼きついていた、美しき日本の記憶なのだ。
◆ 写真全影 ◆
ここから先は
¥ 100
過去にたくさんの記事を書いています。マガジンに分類しているので、そちらからご覧ください。メンバーシップもやっています。誰でも見れるつぶやきも書いています。