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【文芸センス】太宰治『走れメロス』②メロスの心境の変化

 この小説は、主人公のメロスが友との約束を守るため、その命をかけて、迫る刻限や悪魔の誘惑と闘う物語です。その中で、メロスとて常に誠実だったわけではなく、ときとして諦念に心を支配されることさえありました。

 今回は、メロスの心境の変化が感じられる文章を集めました。七変化とまではいきませんが、メロスの乱高下する精神を、太宰がどのように描きわけているのか、ぜひ注目してください。

太宰治『走れメロス』

②メロスの心境の変化

青空文庫 太宰治『走れメロス』


誠実の人

 暴君ディオニスと対面したとき、メロスの心は正義の光に満ちており、一片の陰りもありません。

ああ、王は悧巧りこうだ。自惚うぬぼれているがよい。私は、ちゃんと死ぬる覚悟で居るのに。命乞いなど決してしない。

作品序盤

 この言葉に嘘などあろうはずがなく、この場で命を差し出せと言われたら、おそらくメロスは喜んで命を捨てたでしょう。

メロスは足もとに視線を落し瞬時ためらい、「ただ、私に情をかけたいつもりなら、処刑までに三日間の日限を与えて下さい。たった一人の妹に、亭主を持たせてやりたいのです。三日のうちに、私は村で結婚式を挙げさせ、必ず、ここへ帰って来ます。」

作品序盤

 メロスの唯一の心残りは妹でした。三日の猶予を求める行動も、もちろん命乞いをしているわけではなく、妹想いの優しい兄として、我々読者の心をいっそう強く捉えます。

私は約束を守ります。私を、三日間だけ許して下さい。妹が、私の帰りを待っているのだ。そんなに私を信じられないならば、よろしい、この市にセリヌンティウスという石工がいます。私の無二の友人だ。あれを、人質としてここに置いて行こう。

作品序盤

 「そんな勝手な!」と読者を驚かせる場面です。しかし、セリヌンティウスを人質に差し出すと口にできるメロスには、愚直なまでの友への信頼が感じられますし、「それならなおさら、帰ってこないはずがない」と読者を信じさせる効果もあります。

 このように、王との対面の場面では、メロスは根っから誠実な若者であり、「まさかメロスがセリヌンティウスを裏切るはずがない」と読者はすっかり安心します。

 その後、メロスは村に飛び帰り、急いで妹の結婚を取り纏めます。

祝宴は、夜に入っていよいよ乱れ華やかになり、人々は、外の豪雨を全く気にしなくなった。メロスは、一生このままここにいたい、と思った。この佳い人たちと生涯暮して行きたいと願ったが、いまは、自分のからだで、自分のものでは無い。

作品中盤

 妹の結婚式は、死を決意したメロスにとって、おそらく最後にして最も幸福な宴です。「一生このままここにいたい」という一言には、それまでの信念の揺らぎを感じさせますが、まじめな堅物かたぶつの本音を聞いたようで、それまで読者とかけ離れた存在だったメロスに、我々は親近感を抱きます。

崇高な意志の重さ

 翌朝、メロスは再び城へ向けて出発します。

 私は、今宵、殺される。殺される為に走るのだ。身代りの友を救う為に走るのだ。王の奸佞かんねい邪智を打ち破る為に走るのだ。

作品中盤

 メロスの決意はいよいよ深く、その崇高な意志を証明するために、なんの戸惑いもなく死を決意しています。

 しかし、やがてメロスの肉体は限界に達し、とうとう道なかばで倒れこんでしまいます。

メロスは幾度となく眩暈めまいを感じ、これではならぬ、と気を取り直しては、よろよろ二、三歩あるいて、ついに、がくりと膝を折った。立ち上る事が出来ぬのだ。天を仰いで、くやし泣きに泣き出した。

作品中盤

 これまで読者が見たことのないメロスの姿です。それまでいわおのように頑丈に思えたメロスの肉体と信念がもろくも崩れ去るのですが、そのありさまがビジュアルとして分かりやすく描かれています。

身体疲労すれば、精神も共にやられる。もう、どうでもいいという、勇者に不似合いな不貞腐ふてくされた根性が、心の隅に巣喰った。

作品中盤

 メロスは崇高な意志の重さに押し潰され、自ら耐えられなくなってしまいました。意志が強ければ強いほど、その重荷に耐えかねて、いっそ放棄したくなるものです。

 そして、メロスはとうとう、自らの死を口にするようになります。

セリヌンティウスよ、私も死ぬぞ。君と一緒に死なせてくれ。君だけは私を信じてくれるにちがい無い。

 人間、弱気になると、感傷的な気持ちになります。「一緒に死ぬ」と言っていますが、メロスが死のうがセリヌンティウスには何の影響もありません。このメロスのセリフからは、自らの命を差し出すことで背信を許してもらおうというような、そんな卑怯な心すら感じます。

復活の勇者

 しかし、メロスは清流に疲労も弱気も洗い流し、再び走り出します。

私を、待っている人があるのだ。少しも疑わず、静かに期待してくれている人があるのだ。私は、信じられている。私の命なぞは、問題ではない。死んでお詫び、などと気のいい事は言って居られぬ。私は、信頼に報いなければならぬ。いまはただその一事だ。走れ! メロス。

作品中盤

 いちど落ち込んだメロスがなぜ復活するのか?メロスを突き動かしたものは何だったのか?その理由を太宰は「信じられているから」と説明します。

 「信じられているから走る」「信じてくれる人のために走る」。単純なようですが、これまでメロスが抱いてきたあらゆる感情が削ぎ落とされたようです。

まだ陽は沈まぬ。最後の死力を尽して、メロスは走った。メロスの頭は、からっぽだ。何一つ考えていない。ただ、わけのわからぬ大きな力にひきずられて走った。

作品終盤

 暴君への怒り、人間としての名誉、みずからの命……。そういうったあらゆる思念を越えて、メロスは何も考えず、大きな力に導かれて走ります。

 からっぽだからこその身の軽さ。わけのわからぬものだからこその威厳。そういったものが一体となってメロスを後押しし、メロスの走る姿に疾走感を与えています。

おわりに

 作品全体をとおしての、メロスの心境の変化はシンプルです。無垢に誠実だった男が、一度その気高き精神を失い、そしてもういちど取り戻すというだけです。しかし、その変化は、まるで人が変わるように劇的です。

 小説のなかで、人物の心は多かれ少なかれ変化します。そんな移り変わる心を、読者に納得してもらいながら、しぜんに描くのが小説の難しいところなのですが、太宰は変化するメロスの心をひとつひとつ丁寧に、しかし大胆な表現を使ってダイナミックに描いています。ぜひ、参考にしてください。

おしらせ

 言葉の持つ力を掘り起こし、文章表現に活かす『霊石典』を編集しています。言葉について深く学びたい方は、ぜひ、あわせてお読みください。

 この記事の他にも、過去にたくさんの文芸学習の記事を書いています。こちらからお読みください。


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