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地獄に近づく世界

 橘玲という作家がいる。胡散臭くて何となく敬遠していたが、『世界はなぜ地獄になるのか』というインタビューを読んでいたら、まともな事を言っていた。以下は、そのインタビューからの引用になる。

 「世界はなぜ地獄になるのか」 (マネーポストWEB)

『橘:私は“リベラル”を「自分らしく生きたい」という価値観と定義しています。そんなのは当たり前だと思うでしょうが、人類史の大半において「自由に生きる」ことなど想像すらできず、生まれたときに身分や職業、結婚相手までが決まっているのがふつうでした。

 いま世界は「リベラル化」の巨大な潮流のなかにあり、「誰もが自分らしく生きられる」社会が目指されています。差別的な制度を廃止し、人権を保障し、多くの不幸や理不尽な出来事をなくすのはもちろん素晴らしいことですが、それによってすべての社会問題が解決できるわけではなく、逆に新たな問題を生み出してもいる。

 これまで政治家は、地域や組織のボスと話をつけて利害を調整してきました。ところがリベラル化によってイエ、教会・寺社、組合などの共同体が解体すると、一人ひとりの複雑な利害が前面に出てきます。これが日本だけでなく世界的に、民主政(デモクラシー)が機能しなくなってきた理由でしょう。

 身分や性別、人種、国籍などにかかわらず能力だけで個人を評価するメリトクラシーはリベラルな社会の大原則ですが、知識社会化が進むと学歴の低いひとたちが社会から排除され経済格差が拡大していきます。

 男と女の生物学的な性差によって、恋愛ではまず女が男を選択し、次に選ばれた一部の男(モテ)が女を選択しますが、自由恋愛が当たり前になると、女性の「選り好み」がきびしくなって、性愛市場から脱落してしまう若い男性が増えてきます。日本ではこれは「モテ/非モテ」問題といわれ、英語圏では「インセル(非自発的禁欲主義者)」を自称しています。

 ここで重要なのは、能力格差も、モテ格差も、社会がよりリベラルになり、人種や国籍、身分や性的指向にかかわらず、すべての個人を同じ基準で一律に評価することで顕在化してきたことです。リベラル化が引き起きこした問題を、リベラルな政策によって解決することはできませんが、「リベラル」を自称するひとたちはこのことをまったく理解していないようです。

 同様に、リベラル化が進んでアイデンティティが多様化すれば、ある人にとっての正義が、別の誰かの正義と衝突することがしばしば起きます。「自分らしさ(アイデンティティ)」に優劣はつけられませんから、この対立は原理的に解決不可能です。(略)』

 以上の発言は妥当なものだと思う。私はちょうど、歴史家ウォーラーステインの「史的システムとしての資本主義」を読んでいたが、ウォーラーステインも同じような事を言っていた。

 ウォーラーステインは「万物の商品化」と言っている。万物が商品化され、世界はグローバルに繋がり、全てが比べられ、競争する世界になっている。それ故に世界は「地獄」になっている。橘玲の指摘とウォーラーステインの指摘はそれほど違ったものではない。

 またこの指摘は我々の実感とぴたりと一致する。例えば「恋愛」というのも、もはや完全に市場に組み入れられたものになっている。大雑把に言えば、女はより権力や金を持った男を選ぼうとし、男はより美しい女を選ぼうとする。もちろん恋愛は個人個人の感情であるから、それぞれにそうした方向から外れた恋愛をする事も多々あるだろうが、全体的な傾向としてはそういう方向へ向かっている。

 恋愛のような個人感情で行う事柄ももはや市場に組み入れられてしまっている。ここで起こってくる問題は全てがグローバルに繋がってしまった事から生じている。人は、何と比較する事も可能である。彼氏の年収をイーロン・マスクの年収と比較する事もできるし、彼女の美貌をハリウッドスターと比べる事もできる。

 グローバルに繋がった世界市場、あるいはメディアを通じて繋がったインターネット空間は、諸々の人間が参与する巨大な世界だ。そこではあらゆる可能性が開かれているわけだが、それ故に、全ての人間がこの闘争に参加する事になり、そして当然であるが、無数の敗者が現れた。

 可能性と自由の解放が、無数の敗北やルサンチマンを生むというのは当然の事態であるが、それについてはっきり見ようとする人は少ない。かえって傷ついた精神を、どこか貶めやすそうな民族や国家を取り上げ、侮蔑し、批判する事によってウサを晴らそうとする人もいる。

 この社会の問題は、見やすいところでは、中小の共同体が全く機能していない事だ。かつてあった中小の共同体は叩き潰され、インターネットのような新しいテクノロジーによって全てが関係づけられ、一つの世界に還元されてしまった。この中で、人は他者とのつながりを容易に見いだせない。あるのはバラバラの個人同士の極めて弱い絆か、あるいは多数者に礼賛される偶像としてのポジションである。それぞれが利己主義を抱いて生きている為、他者の為という倫理は既に過去のものとなり、それぞれに反目しあっているような状態だ。

 私がそれ以上に問題だと思うのは、世界が単一化した事により、一つの価値観でしか考えられないという事だ。それ以外の価値観というのが全く他者と通話不能になっている。

 単一化した価値観とは、例えば、私が自分のツイッターのフォロワー数を見て、クリスティアーノ・ロナウドのフォロワー数よりも遥かに少ない事を悩む、というような事だ。人間はフラットであり、全ての人間が同じ価値であるならば、その数を集めた人間が最も偉大だという事になる。この「量」としての価値観が絶対的に通用しているので、これ以外の価値観は、現在ほとんど他人と通話不能になっている。

 簡単に言えば「売れる事が正義」であり「金が全て」であり「フォロワーが多い方がいい」といった事だ。もちろん、それとは反対の言説も聞かれるが、とはいえ、このシステムそのものを否定するような形での価値観を持っている人はほとんどいない。どちらかと言うと「売れない自分」を慰めるような言説が多い。この場合、「売れるー売れない」の価値観を越えて、自らの価値を定立しようとする人は極めて少ない。

 ※
 現代の資本主義は、社会の内部に大きな格差を作っている。この格差は元々、南北問題のような形で、国家間で現れていた問題が、国家内部に現れた現象だと私は見ている。

 例えば、少し前に問題になった統一教会の問題なども、次の言葉に要約できるだろう。「日本人の金持ちは日本人の貧乏人と付き合うよりも、韓国人の金持ちと付き合うのを選ぶ。たとえ相手が胡散臭くても」

 安倍首相の死をきっかけに統一教会の問題が暴かれた時、韓国を批判していたネトウヨ御用達の論客や、愛国を売りにしていた政治家が統一教会と結びつきがあった事が暴露された。

 ここで問題になったのは、普段から愛国をスローガンとして、韓国を徹底的に叩いて、一部の人々から人気を得ていた人達が、裏では統一教会と繋がっていたという事だ。

 しかし、この問題は「金持ちは金持ちと繋がりたがっている」と考えれば、簡単な話になってしまう。日本においても世界においても格差が増大しているので、同じ民族、同じ国家の人間でも、金持ちは貧乏人と付き合うよりも、金持ちとつるみたがっている。そういう冷酷な現実が現れたと考えれば、簡単な話になる。

 ネトウヨ系論客が愛国を吐露し、韓国を叩いていたのは、単にそういうイデオロギーを喜ぶ人々への商業的アピールでしかなかった。これに、一部のファンが怒ったわけだが、全てがビジネスだと考えると、論客の行動は一貫している。彼らはファンに商品を買わせる為に信じてもいないイデオロギーを散布し、その裏ではやはりビジネスの為に、見かけのイデオロギーとは真反対の統一教会と付き合っていた。

 私が統一教会の問題を蒸し返したのは、今更政治的党派の戦いに参加したいからではない。世界は近代国家という対立軸から、違う次元に移っていっているのではないか、その事を考えてみたいからだ。

 資本主義が進み格差が各地で進み、それ故に、社会の上層部と下層部との間に一層の乖離が現れてきている。アメリカ人の金持ちは貧乏なアメリカ人と付き合うよりは、日本人の金持ちと付き合うのを選択するだろう。アメリカ人の金持ちが日本人の金持ちと抱き合っている姿を見て、日本人は「同じ日本人がアメリカの有名な人と抱き合っている!」と喜ぶかもしれないが、実際にはもう同じ日本人という結びつきの方が弱くなっている。社会の上層の人間はもう下層の人達と付き合いたくない。

 とはいえ、社会の上層にいる人間が、どうしてそのように富裕でいられるのか、権力を持つ事ができるのかと言えば、下層の人間から搾取しているからに他ならない。言い換えれば、生産から生まれる剰余価値を自らのものとしているからだ。

 それ故に、今、書いたような場合でも、「私は日本の貧乏人とは付き合いたくない」などという本音を、日本人の金持ちは言ったりしないだろう。彼はむしろ「日本の為になると思って〇〇さんと新しいビジネスを始めます」などと言うだろう。

 そもそも言えば、近代国家の概念自体が比較的最近できたものだ。「日本」「日本人」という概念そのものが明治に生まれたものだと私は思っている。それ以前は、例えば農民と武士では生活も考え方も違うし、それらを括る「日本人」なんて観念はなかっただろう。

 あるいは、薩摩藩と江戸幕府に仕える人間では、大きくイデオロギーは違っていた。薩英戦争というのは、今で言えば鹿児島県が単独でイギリスと戦争を始めたというようなものだが、中央集権が出来上がっている現代ではとても考えられない。逆に言えば、当時は地方の力がより強かったという事だ。

 「日本」という概念そのものが明治に作られたものだとはいえ、「日本」を形作る原資はそれ以前からあった。ただ、日本という概念が比較的最近出来たものだと考えると、これから先もずっとそれが続くとは考えられない。

 格差の広がりと、世界がグローバルで繋がるという事は、近代国家という概念を緩やかに突き崩していくのではないか。グーグルやアップルという世界企業が活躍しているのもそのいい例だろう。また、このグローバルな世界においては「日本人の金持ちは日本人の貧乏人よりも、他国の金持ちと繋がりたがる」というのも、冷酷な現実として現れてきているように思う。

 ※
 今まで書いてきた事は不得手な歴史、社会の話だ。しかし、問題を整理する為に書いた方がいいだろうと考えて書いた。

 ウォーラーステインの「史的システムとしての資本主義」を読んで、私は「これなら、問題は単一化できそうだ」と考えた。要するに現代の資本主義的な様式が問題であり、それ以外の事は、資本主義を中心とする問題系に組み込んでしまえばいいと思った。この文章は橘玲から始めてはいるが、実際にはそういう事を考えていた。

 例えば、宗教の問題がある。現代において宗教の問題についてどう考えるべきか?と考えるとなかなか難しい問題に違いない。

 ただ、資本主義的な様式を基礎にして考えると次のようになる。資本主義というのは、現世の中に救済を持ち込んだ思想である。かつての宗教は、現実世界の悲惨を来世というものを考えてバランスを取ろうとする思想だったが、それを現世に繰り入れた思想が資本主義だった。今から振り返るとそう言える。

 資本主義は人間の欲望を燃料として走り続ける。資本主義については色々言われるが、結局は、人間の欲望を解放するシステムだった。一方で、中世の封建社会は、欲望を抑制するシステムだった。それ故に、道徳や倫理が重視された。

 現代において道徳や倫理はせいぜい、他人を害さないように気をつけましょう、といった程度のものになっている。要するに、他人を害さない程度に自己の欲望を叶えるのは批判されるべきものではなく、むしろ称賛される行為である。

 また、欲望はシステムの内部で解放されなければならない。大学教授が電車で痴漢をしたらすぐに「金があるなら風俗に行けばよかったのに」というコメントが飛んでくる。欲望を解放するならシステムの内部で、それが我々の暗黙に承認する前提だ。

 しかし欲望を解放し、それを肯定するシステムが、現代においてはその利点よりも、欠点が目立ち始めている。買いたくもないものを買い、欲しくもないものを欲しがり、行きたくもない場所に行く。そしてそれら別に望んでもいない事を達成する為に、やりたくもない事をやるーーすなわち、労働を行う。この世界においては欲望のあり方そのものが生産され、配布される。欲しくもない新商品、流行の商品を買い続け、消費し続けなければならない。

 欲望を抑制する社会から、欲望を肯定する社会へと時代は移ったわけだが、その欠陥は例えば環境破壊に見られる。あるいは私達が見ようとしない貧しい国のあり方に現れる。それらはシステムの「外部」であると想定されていたので、そこから搾取をするに我々は躊躇しなかった。だが、世界は全て繋がっている為に、それらのツケを我々は後から払わされている。

 近代の文学は大まかに、欲望を肯定する個人を罰するという倫理に彩られていた。夏目漱石の「こころ」が一番わかりやすい例として浮かぶ。友人が恋する女を自分のものにするという事は、先生に罪悪感を生んだ。自らの欲望に忠実である事が、やがては他者を侵害し、そして自分自身をも壊滅させるという、欲望そのものが持っている運命がそこでは既に語られていた。

 だが、その運命に関してはあくまで「物語」だとして、我々はそれを真剣に考えなかった。その問題は、社会システムに還元されたからだ。欲望の解放は、資本主義というシステム内部では善であり、様々な衝動に答える商品やサービスが存在しており、欲望の解放は漱石が考えていたように「悪」ではない。我々にとって欲望を開放するのはむしろ善である。

 しかしその結果は本当に期待された通りだったろうか。欲望が解放される事を良しとしたシステムは、そのシステムのあり方そのものの矛盾に悲鳴をあげている。例えば、環境破壊はその最もわかりやすい例だ。環境から奪取した様々なものは我々を豊かにしたが、しかしその反対に自然の生産性を奪う事になり、結果、我々の豊かさを損なう事へと繋がってしまっている。

 アメリカン・ドリームという形で、欲望を解放し、社会の上、一番高い場所へ誰でも行ける、誰でも「夢」をつかめる、そうした努力を推奨しているアメリカという国家が、最も格差が大きい国家というのは矛盾でも何でもない事柄に私は思える。果てのない自由の行使、その代償は絶対的な専制、自他の隷属と相場は決まっている。これは歴史上繰り返された事のように思う。

 欲望を抑制してきた中世から、産業革命を経て、欲望を開放する近現代へと人類は進んできたわけだが、現在においては欲望の解放そのものが全てを巻き込んだ競争に達している。この競争においては、人間はみなフラットであり、人為的努力によってそれぞれ成功したり失敗したりすると考えられているが、そもそも人間はみなフラットな存在でもないし、格差が広がれば最初から勝敗は決している。しかし、この勝敗の結果はあくまでも自由闘争の結果であると社会は装わなければならない。

 しかしそうした勝敗以上に、全てが単純化され、一つの価値観に従わなければならないというのが何より問題である。質は問題とされず、量だけが問題である事。世界が繋がり、世界の人々が大衆(マス)として組織された事により、彼らをうまく手懐けた者が多大の富を得たり、人気を得たりする。それ以外の価値観を持とうとしても、そうした価値観を評価されるような小規模なコミュニティはどこにもない。あったとしても、それは世界の闘争における敗者としてのコミュニティとしかみなされない。

 こうした社会はどこへ向かうのか、よくわからない。ただ、私は人が神格化しているような「経済」は平和下の暴力形態の一種であると考えている。厳正なルールの元で行われた合法的な暴力はその裏側で、非合法な暴力、すなわち本物の暴力を引き起こすだろう。非合法な暴力は、法を破ったという事で人々の咎めを受けるが、それでは法を自分達に都合のいいように歪めたり、解釈したりするグループは常に正義であるという事になってしまう。

 グローバル化しなくても世界は繋がっている為に、様々な因果は様々な形で現れるだろう。合法的な暴力は非合法な暴力を引き起こすだろう。世界は全てを単一化しようとしているが、単一化が果たされ、世界が一つになった途端、各部分が反乱し、分裂を起こすだろう。現代はそうした無秩序に向かっているように私には思える。

 その過程において、全てを「数量」によって統一するという運動が起こっている。全てが繋がり、全てがフラット化した世界は確かに地獄に似ている。そこでは無限の自由と可能性が開かれており、それ故に互いに自由・可能性を行使して互いに蹴落とし合うので、世界は地獄へと近づいていく。そうして、何とか這い上がって社会の頂点に至ったとしても、その地点から引きずり落とされる事もあるだろう。

 ちょうど今、やっている「ビッグモーターの不正事件」などもそれに当たる。「ビッグモーター」のコンサルタントをしていた小山昇は「数字は人格」というスローガンを掲げていたそうだが、このスローガンはこの社会の在り方を見るに正しい。ただ、人間とか世界の在り方が、この社会の在り方通りに行くとは決まっていないだけだ。


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