文学の脱・当事者性 (芥川賞 第169回)

 芥川賞の第169回が決まったらしい。市川沙央の「ハンチバック」だそうだ。

 市川沙央という人は、症候性側弯症という難病で、人工呼吸器、電動車椅子を使用している。かなり重たい障害を持っている。小説の主人公もまた、重たい障害を持っているそうだ。「ハンチバック」という作品も、作者自身を投影した小説と見て間違いないだろう。

 私は件のニュースを最初に見た時、ほとんど何も思わなかった。もう芥川賞に何も期待していないし、障害を持った人が受賞したという事で、(芥川賞はそういう政治的にはリベラルという主張で、今の社会でのポジションを確立しようとしているのだな)とぼんやり思っただけだった。

 もっとも、これも失礼な感想と言える。なぜなら、私は市川沙央の小説を読んでいないからで、読まずに、そういう政治的なレッテルを貼るのはあまりいい事ではないだろう。ただ、私は最近の芥川賞作品に何の興味も覚えていないので、改めて作品の良し悪しを確認しようという気も起きなかった。だから、ただぼんやりそう思っただけで、それ以上は何も考えなかった。

 ここで、読者には関係のない事を言うと、私は随分前に「コンビニ人間」という作品を褒めた事がある。「コンビニ人間」はここ最近では芥川賞を取って、各方面で称賛された作品で、その当時の私は、少なくとも「コンビニ人間」という作品の思想の方向は優れたものだと思って褒めたのだった。

 ただ、それから少しして、私は後悔した。「コンビニ人間」はそんなに褒めるべき作品ではなかったと思ったし、作者に根底的な教養が不足しており、作品としては、あまりに表皮的だと考えたのだった。今でも「コンビニ人間」は褒めるべきではなかった、と私は思っている。

 そんなわけで、芥川賞作品の中では秀作と言っていい「コンビニ人間」もそれほどいいと思っていないので、最近の芥川賞作品自体に対する評価はかなり低い。最近の日本の作家で唯一評価が高いのは伊藤計劃の「虐殺器官」「ハーモニー」の二冊で、伊藤計劃の作品はSFの皮を被っているが、その根底にあるのは真っ当な文学だと思っている。伊藤計劃の話に関しては話すと長くなるので、興味のある人はアマゾンにある私の伊藤計劃論を読んでいただきたい。

 ※
 そうしたわけで、私は今回の芥川賞関連に関しても、何も言う気はなかった。読んでいない以上、発言する権利もないと思っていたからだ。

 ただ、私はネットでの、芥川賞に対する批判や、議論を見て、自分の中にも意見が湧いてくるのを感じた。ただ、その前に、今回の芥川賞作品に対する、私がくだらないと思うネットでの議論について紹介しておこう。

 くだらない議論というのは、芥川賞(純文学)VS ラノベという対立軸を持ち出して議論している人達で、市川沙央がかつてライトノベルの新人賞に応募していたという事実から議論が白熱したようだ。「芥川賞はラノベよりも高級だ!」という一派と、「ライトノベルを馬鹿にするな! 同じ小説だろ、差別するな!」という一派とが戦っているらしい。

 私はどちらの派閥も嫌いだし、どっちに味方してもいい事は何一つないと感じているので、これ以上何も言わない。ただそういう議論があったという事だけは記しておく。私が心を動かされたのは、その論争ではなく、谷口一平という人のツイッターでの呟きだった。その呟きが、考えさせるものだったので、この文章を書こうと思ったのだった。

 ※
 谷口一平という人は次のように呟いている。それを全文引用しよう。

 「事柄はそう単純ではなく、ここ10年ほどで芥川賞(そして五大文芸誌に掲載される作品)が異常につまらなくなり、文学愛好家の一部はもう現代文学に何も期待せず、激しい読者離れを惹き起している、という背景がある。その原因の一端は、明らかに「当事者が当事者を描いた作品が持て囃されること」だ」

 私はこの呟きを見て(真っ当な事を言っているな)と思った。文学というものの本質を考えると、谷口一平の発言は真っ当だと感じた。

 ただ、この発言が何を前提にしているのかを記す必要があるだろう。谷口一平が、前提としているのは、芥川賞を取った市川沙央のインタビューでの発言だ。

 ※ハフポスト日本版「「重度障害者の受賞者、なぜ”初”なのか考えてもらいたい」芥川賞・市川沙央さん、読書バリアフリーを訴える」の記事より

 「「受賞を受けて、当事者性、当事者小説といった言葉がマスコミで無批判に使われると思います。それについてどうとらえるか」と問われると、「(その表現を用いることを)OKとしていた」とした上でこう続けた。

 私は、これまであまり当事者の作家がいなかったことを問題視してこの小説を書きました。芥川賞にも、重度障害者の受賞者も作品もあまりなかった。今回『初』だと書かれるのでしょうが、どうしてそれが2023年にもなって初めてなのか。それをみんなに考えてもらいたいと思っております」
 
 谷口一平の呟きは、この発言に対する批判だろう。その批判は私には普通のものだし、真っ当なものだと思った。

 私自身は、このインタビューを読んで(こんな程度か)と思ったのだった。正直に言って、この程度のインタビューなら読まずに、この件について書いてもいいだろうと思ったのだった。この程度だったら、読まずに判断してもいいだろう、と。

 ちなみに谷口一平は他にもこんな呟きをしている。

 「そもそも文学とは想像力の芸術であるからして、それが「当事者が当事者を描いた作品」であることは減点対象ではありえても、加点対象であるはずがない。(略)」

 これも、文学というものを捉えた言葉としては真っ当なものだと私は思う。しかし、文学に興味のない人はそもそも何故「当事者が当事者を描く事」が減点対象なのか、その意味がわからないだろうと思う。次は、その事について考えみたい。

 ※
 それでは、何故、文学において「当事者が当事者を描くのは駄目」なのだろうか? それこそ、市川沙央の小説は、社会に対して、障害者に対して注意を向けさせるものであり、それは社会的には素晴らしい事ではないのだろうか? 障害者の作者が、障害者としての自分の苦痛や本心を描いて、世に問う事は、正しい事、素晴らしい事ではないだろうか?

 もちろん、こうした事は、そういう優等生的な視点からは正しいものである。ちなみに、今の文学ーー文学に限らずあらゆるジャンル全般かもしれないがーーがつまらなくなっているのは、こういう優等生達が様々な席を占めている為だろう。

 上記で書いてきた事は、私には文学と政治の関係という風に考えられる。市川沙央は「私は訴えたいことがあって、去年の夏に初めて純文学作品を書きました。それがこの『ハンチバック』です」と言っている。逆に言えば、これは作品が「言いたい事」の手段でしかないという事だ。

 私は、文学の面白さは一種のバカバカしさ、くだらなさにあると思っている。現実世界を放擲した個人の、世界の果てでの砂遊びといった風情が文学にはある。それこそが文学の「力」だと思うが、そういう事は、「健常者」には小っ恥ずかしくて言えない事だ。市川沙央のインタビューを読む限り、私はこの人物は、あまりに真っ当で、あまりにも「健常」であり、それ故、文学という門戸に入っていけない人物と感じた。

 ちょうど、最近読んでいた、中国文学者の中野美代子「中国人の思考様式」という本の末尾にはこう書かれている。

 「再三いう。言葉は、思想の手段ではない。言葉の自己目的的な本質を知る人は、文学とは紙とペンから生まれるのだという、この素朴にして戦慄的な原理を信じていよう。近代小説は、この原理以外からは生まれないし、また、文化がおのずと要請する自由も、この原理以外からは絶対に生まれないのである。」

 中野美代子がここで批判しているのは、彼女は中国文学が専門なので、中国の共産党の思想に適合するように書かれた小説群である。それを評して「言葉は思想の手段ではない」と言っているわけだ。

 文学というものを深く知っている人は、文学作品それ自体が、作者からも、世界からも独立して、一つの実体を成しているのを知っている。それを痛感している。文学を知らない人は、それを痛感していない。しかしこの両者の見かけは、それほど異なっているわけではない。簡単に言えば文学の肉体性、自立性を、自分自身の魂で感じているか否か、だ。

 しかし、知識というのは所詮外的なものだと考えるのであれば、文学を知らない人間が文学についてわかったような事を延々と語るのは可能であり、解説したり、批評したり、あまつさえ小説を書く事もできるだろう。ただ、彼の心の奥深くには、文学に対する素朴な信頼というのは欠けており、それ故に彼は文学を、現に存在している世界との関係の中に明け渡してしまう。

 市川沙央が何かを訴える為に小説を書いたとすると、その訴えた事が成就した暁には、その小説はどうなってしまうのだろうか。社会が障害者に対しての態度を改めた時、社会に対してある訴えかけをした、その手段としての小説の価値はどうなってしまうのだろうか。その作品はもう用済みとなってしまうだろう。社会に訴えかける小説は、社会がそれを受容した時、用済みとなる。そこでは作品そのものの自立性ははじめから損なわれている。

 そもそもで言えば、市川沙央という作家が重度の障害者であり、作品の主人公もそうである事、これらの事は、作品を読んで、作者と、作者自身の社会との関わりを想像せずにはいられないものだ。これは別に障害者に限った事ではない。芥川賞を取った又吉直樹も、本人が芸人であり、メディアに出ていて、読者がよく知っていた人物だという事と、作品に対する評価が分別されていなかった。要するに、作者に対する評価と作品に対する評価が混同されている。

 谷口一平の、「当事者が当事者を描いた作品が持て囃されること」が現代文学に対する失望を招いているという指摘は、そうした部分への指摘だろう。文学における当事者性というのは、新しいものでも、目新しいものでもなく、作者と作品が混同された、文学「以前」の形態であるに過ぎない。

 しかし、現代のように、タレント、アイドル、ユーチューバーとかいったように、その人物それ自体をパッケージして売りに出し、消費者に消費させるという形態が流行である場合には、「文学」も流行から取り残されないように努力する必要がある。少なくとも、無意識的にはそんな風に感じられている。その為に、作品と作者のアイデンティティをパッケージ化して、一緒に売り出すという手法を出版社の方でも積極的に推し進めているのだろう。

 文学における当事者性というのは、文学において決定的な問題ではない。だからこそ「減点対象ではあっても加点対象ではない」のだろう。

 例えば、文学ではないが、ロートレックの絵画に対して、ロートレックが障害者であるという事実を見なければその絵画が評価できないというのはおかしな事だろう。ロートレックの絵画には、ロートレックが障害者としての人生を歩んだという苦闘が反映されていたとしても、彼の絵画が我々の心を打つのはそこにロートレック本人の当事者性があるからではなく、ロートレックという具体的、個別的な個人が絵画という具象的な作品制作を通じて、作者本人よりもより高い境地に至ろうとしたその姿が見えるからこそ感動できるのではないだろうか。

 これらの事はそもそもどう捉えられるだろうか。というより、そもそも芸術家というのはどうして作品を作るのだろうか?

 政治と文学、という関係で考えるのであれば、政治の方が文学よりもよっぽど高級に決まっている。それこそライトノベルの方が文学よりも多くの人を楽しませ、喜ばせるから価値があると言ってもいいほどだ。こうした考え方はしかし、フィクションそのものに対する軽視に繋がっていく。エンタメだろうと芸術だろうと、それらは所詮フィクションであり、絵に描いた餅に過ぎない。それならば、現実に役立つ自己啓発本の方が優れている。

 文学が政治に至る手段でしかないなら、政治に至った段階で文学は捨てられる。それはそれでいいわけである。彼は文学などという、所詮は紙とペンで作られる虚構の世界をすでに卒業してしまっている。それは、現実を知らない子供の遊戯というわけである。私は既に現実を知っている。政治と関係している。文学などという夢のような遊戯はもう脱却した、私はもう大人だ。

 障害者の問題を世に訴える為に文学があるなら、その訴えかけを成功させさえすれば、もう文学という虚構は用済みである。それよりも具体的な政治活動をした方がよっぽどいいだろう。

 共産主義の思想に適合する小説は、小説としての自立性を欠いている。共産主義は「左」だが、これを右に考えても同じ事だ。中野美代子は、戦時中の日本文学の不毛を繰り返し説いていたが、戦争をしている国家に捧げられた様々な作品群はそれ自体、作品としての自立性を欠いている。それらは虚構よりも、現実を優位においているからだ。現実に成っている政治体制の為に書かれた作品は、その体制以上に作品が延命する事はない。それはその体制が滅ぶと共に滅ぶ。

 だが、現実を虚構よりも優位におくとは、真っ当で、健常な世界観ではないのか?と言われれば、「その通りだ」と私は答える。もちろん、そうだ、と。だからこそ、私は文学というのは小っ恥ずかしいものだと先に言っておいたのだ。馬鹿馬鹿しいものだと言っておいた。文学は高級なものだと漠然と考えているだけの文学信者が文学を理解していないのはそうした点においてだろう。

 文学とか芸術とかいうのは、馬鹿みたいものである。しかしその馬鹿みたいなものに自分の全てを賭ける事に、芸術家とか作家としての矜持が現れてくる。しかしそれは、健常で真っ当な人々には語り難い誇りであり、言っても無駄なものでしかない。

 文学作品の自立性とはそういう阿呆らしいものであり、その阿呆らしさに自分を賭けるものが「作家」となるのだろう。これは愚かしい事だと、繰り返し言っておきたい。彼は、現実世界に背を向けて、作品世界の構築に夢中になっている。彼は言う。「この世界よりも、私の作品の方が、私の頭の中の方が遥かに面白い」。

 彼は世界の果てに座り込んで、砂浜で一人で、ひたすら地面に線を書いている。木切れを拾って線を書いている。あるいは砂の城を作って遊んでいる。世界にはもっと大切な事、現実の政治事件や、社会的な様々な事柄が起こっているのに、彼は自分の世界の方を面白いと思っているらしい。

 だがこのような倒錯した世界観からしてはじめて、文学は世界から独立したものとなる。それは人を楽しませる為でもなく、世界に何かを訴えかけるものでもなく、ただ世界そのものがそうであるように、それ自体を作り上げ、存在する事自体が目的であるような何ものかだ。

 文学の面白さとは、そうした世界を越える瞬間にある。だから、世界の只中にあって、世界との関係を終始気にしている、「大人」な人間はそもそも文学に向いていない。文学は、大人になっても子供の精神を持つ者に開かれている。大人の合理的な論理を越えていくのは子供の非合理的な精神だろう。しかし、普通はそんな成長曲線は辿らない。

 文学とはそのようなものだと考えると、今回の芥川賞に関する、色々な議論も私なりに納得できた。いつも正論しか言わないヤフーコメントが、「障害を持つ当事者が賞を取ったのは画期的だ」と言うのは実に正しい意見だと言える。私はこうした意見が実に素晴らしい意見だと心から感服しているし、私も社会の中で生きていかなくてはいけない以上、こうした意見を称賛する自分くらいは身につけていなくてはならないだろう。

 しかしそもそも、芥川賞というもの自体が、一年に二回、仰々しく発表され、もはや全然人気のない「文学」「本」というジャンルを、世の流行の最前線に食い込ませようとする努力であると考えるのなら、その形態からして「文学」という本質と相容れない。世間に向かって大々的に発表して、しかも芥川賞作品を読む事が何やら、大人としての教養として「合格」とみなされるようなら、そこに文学としての真価はあまり期待できない。

 というのは、偉大な文学作品はいつもどこか暗くて、悲しい影を引きずっているからであり、バタイユにしろ、ドストエフスキーにしろ、夏目漱石にしろ、そういうものは衆目に晒して自他ともに快く満足できるようなものではないからだ。そう考えると、芥川賞というのが一種の努力をしているというのは、私にもよく認められるものであるが、それは文学の本質とはほとんど関係のないものであり、これから先はもっと関係なくなっていくだろうと思わざるを得ない。

 ※ 試し読みで「ハンチバック」の文体を確認しましたが、特に自説を変える必要ないと判断しました。

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