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「足摺岬」を読む女

 以下に記すのは僕が経験した恥ずかしい話だ。読者諸氏は最後まで読んで、嘲笑っていただければ良いと思う。
 
 その頃、僕は大学生だった。おそらく、大学四年生だったろう。卒論を何にするかで悩んでいた時期だったから。
 
 僕は電車に乗っていた。何故、電車に乗っていたか。学校に行く途中だったのか、遊びに行く途中だったのか、今は覚えていない。ただ、車体が黄色かった事だけはなんとなく覚えている。あるいは、車内が黄色だったのを、僕は、車体の色と勘違いしているのかもしれない。
 
 時刻は昼だった。明るい日差しが窓から差し込んでいた。電車は空いていた。ガラガラだった。僕は、座席にだらりと腰掛けて、ぼんやりと窓の外を眺めていた。窓外には草むらが流れていく風景が現れては消えていった。
 
 何の駅だったかわからない。ただ、僕は"彼女"が車内に入ってきた時、咄嗟にそちらを見たのを覚えている。華やいだ、若い女性だった。明るい色の服を着て、短いスカートを履いていた。いかにも今風の、自信にあふれる若い女性といった感じだった。
 
 彼女は僕の正面の座席にどっかりと座った。彼女は足を組んで、自分の長い脚を周囲に見せびらかした。僕は何も考えず、手元の文庫本に視線を落とした。何を読んでいたか、わからない。時期から考えるとおそらくは小林秀雄だったろう。
 
 僕は最初、文字に集中できなかったが、次第にのめりこんで読み始めた。その頃の僕は小林秀雄の論理に熱中していた。小林秀雄が吐き出す言葉の一つ一つが自分の脳髄に突き刺さるようで、心地よかった。僕は、本を読んでいった。
 
 電車が何駅か通り過ぎた時、僕は頭を上げた。今、電車はどのあたりを走っているのか、気になったからだ。しかし、僕は目の前に驚くべき"光景"を発見した。
 
 そこでは、さっきの若い女性が文庫本を広げて読んでいた。本の装丁から「講談社文芸文庫」だとすぐにわかった。(若い女の子が講談社文芸文庫を読むなんて、意外だな) 僕はそう思って、興味を抱いた。表紙のタイトルを見て、僕は更に驚いた。
 
 それは田宮虎彦の「足摺岬」だった! 僕はこの世に、「足摺岬」を読む若い女性がいるなんて思わなかったので、心底、驚いた。それも、その子はいかにも今風の、明るい感じの女性だった。
 
 僕は、内心で激しく葛藤した。話しかけようかどうか、迷った。鼓動が速くなった。しかし後悔するよりは、(やってしまえ)と、話しかける事にした。座ったまま、相手の方に前傾して、声を掛けた。
 
 「あの、すいません」
 
 「え?」
 
 その子は、驚いたように僕の顔を見た。よく顔を見ると、幼い顔をしていた。あるいは、そう見えた。
 
 「それって田宮虎彦の『足摺岬』ですよね?」
 
 「え…あ…はい」
 
 「文学がお好きなんですか?」
 
 「文学? …いや、ただ、大学の課題で読まされてるだけです」
 
 僕は絶句した。その一言は僕を撃沈させるのに十分だった。(そうだよな、そうだよな)と心の中で呟いた。
 
 「あ、そうですよね。そうですよね…すいません」
 
 僕は後退りした。元のように座って、横を向いた。もし誰かが正面から覗き込んだなら、僕の顔は真っ赤になっていたはずだ。
 
 (そうだよな、そうだよ。今どきの若い子が好きで「足摺岬」なんて読むはずないよな…そうだよな…そんな子がいるはずないよな…恥ずかしいな…)
 
 僕はぶつくさと呟きながら、必死に窓外の風景を見ているフリをした。件の女子は、電車が次の駅につくと、さっさと立ち上がって出て行った。
 
 
 ※
 以上は僕が十年以上前に経験した出来事だ。
 
 今、思い出しても、顔が微かに赤らんでくる。僕にとってはそれくらい恥ずかしい話だった。
 
 思えば、若い頃の僕はある種の"理想"を持っていた。今は理想は砕け散って、バラバラの残骸になってしまった。その破片がどこに行ったのかすら、僕にはもうわからない。
 
 今の僕はもう他人に"文学"が好きかどうかなんて、確かめたりはしない。失望する羽目になるからだ。確かに、文学らしき事はやってはいる。あたかも、祭りが終わった後でも、誰かがその余韻で踊り続けているかのように。だけどそこにもう"文学"はない。
 
 この社会に、"文学"が好きな若い子はたったの一人もいないのかもしれない。男女関係なく、若い子はもう"文学"どころじゃないだろう。…もちろん、そう言えば、僕は、「言いすぎだ!」とか「自分は好きです。何言ってるんですか!」と抗議されるだろう。だが、僕の言いたいのは、本当にそうしたもの、ある作品が自らの魂に呼応して輝くような、そういう経験を通過しているかという事だ。
 
 確かに"文学"なんていうのはもう時代遅れだ。文学と名の付けられた現代の多くの作品はあるいは自らをジャーナリズムに売り渡し、あるいは政治性を導入し、あるいは流行の現象を作品内に挿入し、あたかも沸騰する現在に対応しているかのような見かけを有している。しかし、瞬間的に入れ替わる"現在"についていくだけなら、「小説・本」なんていう迂遠な形式よりも、インターネットの動画の方が圧倒的に有利だろう。
 
 文学は時代遅れであり、金にもならなければ、人気も出ない。文学はもう終わっている。まさか…「足摺岬」を読む女子大生なんていうのが、この社会にいるはずがない。誰しもが合理的な労働や遊びで忙しいのだ。あの電車の子だって、嫌々、学校の課題で読んでいたに過ぎない。
 
 それでも…僕は思うのだ。僕があの時、質問したのは間違いではなかったのではないか?、と。たとえ、顔が真っ赤になるような恥ずかしい思いをしたとしても、もし同じ時が僕の人生にやってくれば、やっぱり僕は声を掛けるべきだろう。"理想"はもう砕けてしまったが、それでも、まだ何かの可能性、残滓は残っていると、そんな風には考えられないだろうか? 僕は過去のあの恥ずかしい出来事を振り返るたびに、そんな風に思わずにはいられないのだ。

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