「アウグスト・エッシェンブルク」 ミルハウザー著

 年間読書人さんのレビューを読んでいたら気になったので、ミルハウザーの「イン・ザ・ペニー・アーケード」を読みました。タイトルの「アウグスト・エッシェンブルク」は「イン・ザ・ペニー・アーケード」の中にある中編小説で、作品の質や構成を考えれば著者の代表作と言っていいでしょう。

 どういう小説か、簡単に説明します。主人公のエッシェンブルクはからくり人形師です。美しいからくり人形を作る事に、自分の人生を費やしています。彼は純粋な芸術家タイプの人間です。エッシェンブルクは子供の頃に、緑色のテントの中で見たからくり人形に魅せられて、からくり人形創作の道に入ります。後年、エッシェンブルクは、自分が芸術に目覚めた過去を次のように述懐します。

 「ある日、彼の父親が時計の裏側を開け、内部の歯車を見せてくれた。あれが彼の人生だったのだろうか? 変てこな紙人形に閉じ込められた鳥。突然動き出した、絵の中のボート。くすんだ緑色のテントの中の、汗だくの魔術師。それらはみな、郵便切手のすかしのように密やかで精緻な、運命の予兆だったのだろうか? それともあれは単なる偶然のだったのかーーひとつの人生を織りなす無数の偶然の中から記憶がたまたま選び取った偶然だったのだろうか?」

 述懐しているエッシェンブルクは大人になり、世界の醜さを知った後の彼ですが、同時に子供の頃の情熱を湛えたままの彼でもある。この回想においては、そうした彼の中の二つの要素がぶつかりあっている。この描写だけでも、ミルハウザーが優れた作家だとわかりますが、それは描写がうまいとか、文章がうまいというよりは、結局はミルハウザー自身が芸術家であるから、という他言えない何物かが彼の中にあるからだと思います。

 エッシェンブルクという一人の、本物の芸術家をミルハウザーが描き切れたのは何より、彼の中に芸術家が存在したからです。自分の中に芸術家が存在していない、職業だけが芸術家の人間が、このような小説を描いたとしても、エッシェンブルクのような人間は描けなかったでしょう。それは、最近の小説や映画にあるような、普段、自分が体験している日常から逃れられないものになるでしょう。彼らは、日常にアクセントを加えて芸術だ言っていますが、実際には世俗を突き破る情熱を持っていないだけなのです。

 話が行き過ぎましたので戻ります。「アウグスト・エッシェンブルク」という作品の構造は割合単純にできています。この単純さは、中編小説という分量に納める為だったかもしれませんが、それ以上に、作者の哲学を示す為、骨格が明瞭なものにされたと感じました。

 純粋な芸術家は単独では世界に存在できません。存在するとすれば、一人で穴蔵に閉じこもって絵を描き続けなければならない。彼には、世俗と芸術を繋ぐプロデューサーが必要だ。本作ではこのプロデューサーにあたる人が二人でてきます。

 一人目はプライゼンダンツです。彼は百貨店のオーナーです。百貨店の人引き用に、エッシェンブルクのからくり人形は使えると考えたのでした。エッシェンブルクはプライゼンダンツに引き抜かれて、展示用のからくり人形を作ります。最初は見事な成果を納めるのですが、やがて後発のライバル店が同じようなからくり人形を作り、エッシェンブルクのからくり人形は人気を失っていきます。

 後発のからくり人形は、エッシェンブルクのそれのように精妙な動きは持っていないが、肉感的な、色っぽいものに仕上げられていました。それは芸術家が真に目指す人形ではなく、大衆への「受け」を狙った人形で、予想通りの成果を収めました。エッシェンブルクはこの道において先駆者でしたが、後発の勢力に押されて居場所を失います。彼はプライゼンダンツに首を宣告され、百貨店を去ります。

 その後に現れるのが、ハウゼンシュタインというプロデューサーです。彼はもともと、エッシェンブルクを首に追いやった人形を作っていました。それが起業家となって、エッシェンブルクを誘いに来たのです。

 最終的には、ハウゼンシュタインは、プライゼンダンツがエッシェンブルクに対してしたのと全く同じ事をします。つまり、芸術家を褒めそやし、彼を世俗と和解させ、ショーとして成功させるのですが、大衆が飽いていくると、彼を見捨てる。エッシェンブルクは少数の信奉者に囲まれているのですが、現代のような世界においては少数者は何物をも意味しない。ハウゼンシュタインはより俗っぽい見世物の方に移行して、エッシェンブルクを切り捨てます。

 それではこのストーリーの中で、作品の優れた部分はどこにあるのでしょうか? …それは特に、ハウゼンシュタインというキャラクターの実在性に依っているように思われます。ハウゼンシュタインとエッシェンブルクは、シャアとアムロのように、互いに対立しつつ、破局を迎えるのがわかっていながら相手を必要としている存在なのです。

 ハウゼンシュタインは芸術に対する識見を持っています。エッシェンブルクの天才も見抜いています。同時に彼は現代の大衆がどれほど表面的にしか物を見ないか、彼らが絶えず新奇なものに目移りするのをよくわかっています。彼は、エッシェンブルクに演説します。そこで彼の深いニヒリズムが露わになってきます。

 「彼のいう下人はそういうことではない。それはもっぱら精神のありようを指し示す言葉である。すなわち、偉大なもの、高貴なもの、美しいもの、独創的なものを引きずり下ろしたい、何が何でも矮小化したいと本能的に願わずにはいられない精神、それを指して下人というのである。この願望を実行に移すにあたって、下人はかならず何か立派な大義を持ち出してくるーーたとえば愛国心。あるいは全人類的精神。社会の進歩、道徳、真理。下人はいつの世にも存在していた。だが、十九世紀の後半を迎えるまでは、比較的ささやかな力でしかなかった。(中略)ところが十九世紀も後半に入ったいま、下人の精神は西洋社会全体に広がっている。」

 ハウゼンシュタインは世界の有様を冷酷に見通しています。世界は今や、大衆のものです。高貴なもの、貴族的なもの、高邁なもの、偉大なものは完全に排除されています。

 ネット上の批評を見ていたら、ミルハウザーを「トーマス・マンに近い」と言っている人がいましたが、その通りだと思いました。トーマス・マンに関しては「魔の山」を読んだくらいですが、彼は、知識人が、現代的な粗暴な力に敗北していく姿を描いていました。「魔の山」では、ナイーヴで、芸術家肌の少年が、粗暴な、暴力的な力に敗北していきます。ラストでは、唐突に主人公が戦争に放り出されて終わります。あの描写は、私は現代そのもののの比喩だと感じました。偉大な時代、崇高な時代は終わりを迎え、下劣な、暴力的な時代が始まったのです。

 トーマス・マンに関しては、生まれや年代などから、ゲーテ時代のような文化の雰囲気を感じる事ができたのではないかと私は推測しています。彼はドイツ生まれで、1875年生まれです。そこから第一次大戦、第二次大戦を経験していくので、時代の変遷をマンは自らの人生で感じたはずです。しかし、ミルハウザーはニューヨーク生まれで、1943年の生まれです。ミルハウザーは言ってみれば「下人の時代」の只中に生まれたのであって、我々とそれほど変わらないと思います。

 そうしたミルハウザーが、何故、世界の移り変わり(ハウゼンシュタインの言うような)を認識できたのかと言えば、彼の懐古趣味の為ではないかと私は思います。現在に生きている我々は最初から全てを喪失しているので、喪失感すら持つ事ができません。今の文学作品が、日常に拘泥して、行き場を失っているのは、喪失がなく、獲得もない為です。ミルハウザーは彼一流の懐古趣味で、過去に遡り、教養を身につける事によって、今の世界が何であるかを見つめるある視点を獲得したと思います。この視点の獲得ーー(「喪失の獲得」とでも呼べばいいか)は、当然ながら、現代社会では彼の孤立を強いる事になりましょう。誰もが何も失ってはいない、世界に満足だ、と考えているさなかに一人で沈鬱な表情をせざるをえないからです。

 ハウゼンシュタインに戻ります。ハウゼンシュタインは、時代の傾向をよくわかっています。大衆の時代がやってきた事をわかって、彼らを見下している。しかし同時に、ハウゼンシュタインには、エッシェンブルクのような芸術家としての才能はありません。彼はどう転んでも知性の人であって、創造の人ではないのです。優れた知性と能力を持ちながらも、噴き上げるような天才的な熱情の欠ける人物。それがハウゼンシュタインという人物です。

 彼は大衆を見下していますが、彼らに、好みのものを提供しようとします。大衆を馬鹿にしながらも、彼らに取り入って、人気を得ようとする。その為に、エッシェンブルクの才能を利用します。この、天才と凡人の間に立たされた微妙な位置にハウゼンシュタインはいる。この物語は、ハウゼンシュタインの物語とも言えます。彼は純粋な芸術家にもなれず、「下人」の一人として一緒に浮かれ騒ぐ事もできない。彼には秘められた葛藤があり、それが「アウグスト・エッシェンブルク」という作品の魅力の一つになっています。

 エッシェンブルクとハウゼンシュタインのやり取りを見てみましょう。二人の会話が、触れられてはいけない部分に触れる箇所があります。

 ハウゼンシュタインが次のように言います。

 「僕は奴らに、奴らが本当に欲しがっているものを与えてやる。そしてその過程において、僕は世間の虚偽を蔑む思いを満たし、真理を愛する気持ちを充足させることができる。そうさ、僕は奴らを、豚どもを引きずり下ろしてやる。引きずり下ろしてやるのさ」

 これに対してエッシェンブルクは思わずこう言います。

 「でもそんなことをしたら、君だって下人ーー」

 この言葉を聞いたハウゼンシュタインは怒ります。「何だね?」と鋭く問い返し、二人の間には気づけば溝ができてしまっています。この溝は二度と埋まる事はありません。

 ここで図らずも、エッシェンブルクは彼の中に蓄積されていたハウゼンシュタインへの軽蔑を吐露してしまいます。一方で、ハウゼンシュタインは劣等感を持ちながらもそれを隠している存在です。だから、ハウゼンシュタインは最後にはエッシェンブルクを難詰せざるを得ない。

 ハウゼンシュタインは、エッシェンブルクを「友人として失格」「君は君が思っているほど純粋ではない」と罵ります。エッシェンブルクは何も答えられません。二人は決別します。

 他にも、ハウゼンシュタインが自分の芸術観を語っている箇所があります。ここは重要な部分だと思うので、引用しておきます。

 ハウゼンシュタインが十六の時、ある若い令嬢と付き合っていました。しかし、彼は彼女よりも彼女の母親に惹かれていました。母親は「クライストとニーチェとボードレールを読み、ピアノでリストとワーグナーを弾いた」という才人です。若いハウゼンシュタインは、母親と、そうした教養あるやり取りを楽しんでいました。ある時に、母親の誘惑に合います。二人はセックスしてしまいます。ハウゼンシュタインにとってははじめての相手でした。行為のさなかで、ハウゼンシュタインはある確信に到達します。

 「その時だ、僕が理解したのは。芸術とは畢竟、熱い陰部に置かれた一人の女の冷たい手にすぎぬ、と。しかも時には、何ともぞんざいな置かれ方をする。彼女は僕に美を語り、魂を語った。だが彼女が伝えようとしていたのは、もっと下世話なことだったんだ。」

 この哲学が、その後のハウゼンシュタインの人生を形作っています。彼の芸術に対する信念はそのようなもので、だから彼は、自分がエッシェンブルクほどの才能がないとわかりながら、欲情をそそるような人形を作って大衆の歓心を得ます。時代は、ハウゼンシュタインのような人物に味方してきていました。私は、ハウゼンシュタインを眺めながら、現代のヒットメーカーをイメージしました。彼らは、大衆を軽蔑する事によって大衆からの人気を得ていると思います。コンテンツの端々に「このくらいが好まれるのだろう」という侮りが見られます。

 大衆は、くだらないものや俗なものが好きなのですが、それが「くだらない」とか「俗」であるとか言われるのは好みません。むしろ、そうしたものを「素晴らしい」「美しい」と言われるのを好みます。彼らは、自分の価値観を鍛えてより高い場所に行くのが無理だとわかっているから、かえって高い位置にあるものを引きずり下ろそうとします。現代においては「芸術」は全く必要されていません。それを欲するのは少数者であり、少数者はこの社会では無力です。ですが、低俗なものを「芸術」というレッテルを張って、出荷するのは好まれます。誰しもが、自分自身の姿を見ずに済むからです。


 ハウゼンシュタインにはそのような、俗と聖、芸術と非芸術の間を行く物語があります。彼は大衆にもなりきれず、そこから超脱して、エッシェンブルクのように自分の創作を純粋に信じる事もできません。彼には彼の人生があります。

 それではエッシェンブルクの方はどうなったでしょうか? ハウゼンシュタインと決別して、一人になったエッシェンブルクはどこに行ったのでしょうか?

 エッシェンブルクは相変わらず、からくり人形に憑かれたままですが、いつしか彼は時代遅れの存在になっています。大衆はからくり人形よりももっと楽しいものを見つけ始めています。彼は落ちぶれていきますが、自分の創作を捨てる事ができません。

 ハウゼンシュタインは「芸術とは熱い陰部の上に置かれた一人の女の冷たい手にすぎぬ」という哲学を持っていますが、エッシェンブルクの哲学は反対の色を帯びています。それは作中で繰り返し語られる、「くすんだ緑色のテント」の中の光景に象徴されています。エッシェンブルクは子供の頃にテントの中で見たからくり人形を見て、魅せられたのでした。その時、彼の中で何か火が灯った。その火が、テントを出た後もずっと持続して燃え続けたのでした。

 エッシェンブルクは口下手であり、自分の哲学を論理的に語る事はできませんが、その原風景が彼の生涯を決定し、貫き通した哲学となったのでした。ハウゼンシュタインはそれを手に入れたかったが、得る事ができなかった。優秀な彼は、それとは違う哲学に到達しました。
 
 ハウゼンシュタインは大衆に何かを与え続ける役割でありながらも、彼が生涯で内心の満足に到達する事はないでしょう。彼はそういう宿命を持っています。それに反して、エッシェンブルクは内心の満足を得られるのですが、それ故に世界から疎外されていく運命を担っています。

 作品のラストでは、疲れ切ったエッシェンブルクが菩提樹にもたれかかって、うたた寝する姿が描かれます。彼は自分の境遇、自分の人生を思い、からくり人形が入ったスーツケースを落ち葉の中に埋もれさせたままにしようかと考えます。もう全てを捨てようかと考えます。

 「物事はしばしばこんなふうにして起きる。うっかり者の運命が行きどまりの裏道に迷い込んでしまい、時にはひとつの生涯全体が一個の過ちに終わるのだ。おそらくある日、どこかの子供が、落ち葉で遊んでいるうちに変てこな古いスーツケースを見つけることだろう。アウグストは菩提樹に寄りかかり、じっくりと考えてみた。」

 私はこの箇所を読んで「この作品は、エッシェンブルクがからくり人形を捨て去るというエンディングなんだ」と思いました。しかしそれは早計でした。意外にも、エッシェンブルクはスーツケースを取り出します。

 「しばらくして、彼はスーツケースを手に取り、馬車の発着場に向かって歩き出した。」

 これがこの作品の最後の一行です。この一行について考えてみましょう。この文章は、エッシェンブルクがまた新たな「一歩」を踏み出す、そうしたエンディングです。希望のある終わり方と言っていいでしょう。

 しかし、私はこの大衆社会、通俗社会が生み出す偽物の希望にうんざりしています。偽の成長、偽の一歩。精神的に成熟していない者が成熟を装い、腐って動かない連中が、次々衣装を取り替える様が変化であり、成長だと言われている。それにまどわされ、そうしたものを信じている人々にも、私はうんざりしています。そしてまた、エッシェンブルクその人も、そうした人達にうんざりして、疎外されながらも、人形作りを続けてきたのではなかったのか。

 エッシェンブルクは果たしてどこへ行くのでしょうか? 彼は「馬車の発着場」に向かったのですが、その先には変わりのない世界が控えているはずです。彼は相変わらず同じような目にあってうんざりするでしょうし、からくり人形は馬鹿にされ続けるでしょう。彼の目の前に現れるのは、ハウゼンシュタインやプライゼンダンツのような人間であって、彼らとの出会いも別れも、以前と同じ運命を辿るのははっきりしています。

 私はこんな風に考えます。この社会においては希望や理想といったものは、現実世界の只中に想定されています。その中でも特に「人=神」であるタレントのような存在が重要な役割を持っています。タレントは現実存在であり、それになるのが可能な存在です。希望は現実の中にある。それが人々の理論です。ですが、その為に人々の語る希望とは常に矮小化されたものに留まります。そしてこの事に文句を言うのは許されていない。

 就職する事、恋人ができる事、仕事で成果を出す事など。そうした事柄の中に希望や理想を見出そうと人はします。しかし、そうした思考をどこまで伸ばしても、我々がいずれ出会うべき死という運命と戦う事はできません。大衆社会が与える仮りそめの夢や希望は、死と戦うのを許さないものなのです。

 なぜなら、それについて考えると自分達の虚無性が暴露されるからです。唯物論に馴れた我々は死後を想定できません。生の圏内に夢や理想を持ち込んで、そこで絶対的な存在になろうと我々はもくろみました。それらは全て、死によって壊滅するものです。生の内部をいくら絶対化したところで、死は生を滅ぼします。現代人は死という運命に勝てません。希望を現実内部に持ち込む限り、現実の壊滅(=死)という事実の中に、自分達の希望が壊滅していくのを見るしかないのです。

 最後の一行に戻りましょう。「馬車の発着場に向かって歩き出した。」 彼は何故、歩き出したのでしょうか? もはや現実の内部に希望は残っていないのは明白です。彼はもう歩き出すいかなる理由を持っていない。合理的に考えれば、からくり人形を落ち葉の中に埋もれさせたまま、世の流れに合った新しい仕事につく方がいいでしょう。しかし、彼は歩き出します。それは何故かと言えば、彼の中には「希望」があるからです。これは、通俗的な形の希望ではなく、彼岸に向かって歩んでいくような希望であるはずです。彼が、現実の中にどんな可能性がなくても、彼が歩む歩みそのものが希望でなければならない、といった歩みであるはずです。

 そのような歩みが「アウグスト・エッシェンブルク」という作品の最後を飾っています。この終わり方は適切な終わり方だろう、と私は思います。現実的には、エッシェンブルクがこれから出会う事柄は作品内で既に描かれた事しかないわけですが、彼の歩みはそれらを乗り越えようとしています。乗り越えた先は、現実的なものの描写としては描く事はできない。だから、一種の断崖として作品は終わっています。


 この作品をどう受け取るかは、読んでいる我々の手に委ねられています。この箇所において、エッシェンブルクという人間の人生にピリオドが生まれ、またそこから新しい円環がどこからか生まれる。しかし、それは「語り得ない」タイプの真実です。ミルハウザーが記した最後の一文は、そのような発生を期待した終わりになっている、と私は感じました。

 

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