「書くこと」がなくなる事はない

  ドストエフスキーは死を前にした書簡で「自分はまだまだ生きたい」「自分にはまだまだ書く事がある」と語っていた。ドストエフスキーという作家の本質を考えるならば、もっともだと言わざるを得ない。
 
 ドストエフスキーはいつも、語りきれない何かを感じていた。そこから繰り返し、泉の如く、「書くこと」が現れてきた。しかし、それはドストエフスキーが天才だったから、そういう源泉を所有したという事ではない。源泉は誰にも開かれている。しかし、誰もが自分の背後を振り返ってみない、という事なのだ。
 
 ドストエフスキーの作品は、歪んだ言語で描かれている。全てが間接的で、象徴的で、必要なら俗悪な調子にもなる。ゾシマ長老のように、高尚な言葉が語られる事もある。しかし高尚な言葉も、歪んだ形で現れる。
 
 バフチンは、「ドストエフスキーの小説から格言として取り出せる言葉は一つもない」と語っていた。これは作家の直接的な真理言及がドストエフスキーにはなかったという意味だ。作家が作品の中に顔を出して、真理を語るという事が、ドストエフスキーの作品にはない。全ての言語が歪んでいるとはそういう意味だ。
 
 ドストエフスキーにおいて、真理とは、歪んだ言語で間接的に語られなければならないものだった。そうでなければ表現できないものだった。真理とは、汲めど尽きない源泉であったのだ。
 
 ベルクソンが言う「持続」もドストエフスキーが感じていたものと近い。ベルクソンの指摘する真理は、我々の中にあるもので、我々が気づいていないものだ。そこから全ては湧いてくる。その全てを汲み尽くす事はできない。
 
 例えば、人はクリエイターに対して、「どうやってそんなアイデアが湧いてくるんですか?」と質問したりする。
 
 こう質問する時、人は「アイデア」というものをまるで物質のように考えているだろう。数量的なものとして考えているのだろう。アイデア1、アイデア2、アイデア3…と。アイデアが次々浮かんでくるとは、そういう数量が無限に続くという事だ。
 
 実際には、アイデアはそのような数、量として算出されるものではない。アイデアが浮かんでくる源泉は単体なのだが、現実に現れようとすると、概念化の作用を受け、無数の断面となって現出してくる。その断面の一つ一つが、クリエイターには「アイデア」として捉えられるという事なのだ。
 
 私はこの文章のタイトルを「『書くこと』がなくなる事はない」とした。タイトルだけ見た人は、「書くことはなくならない」という定理を、「書くこと」というものが、1、2、3…と大量にあって、そこからいくら差し引いても減る事はないし、なくならない、そういう風に受け取ったのではないだろうか。
 
 私が言いたいのはそういう事ではない。「無限」というような数量概念ではない。概念ではなく、概念の基礎になるものなのだと言っても、伝わらないだろうか。ベルクソンは、「時間は空間ではない」と言ったが、私が言わんとするものも同じ事だ。
 
 しかしこんな風に言うと、人はこう言うだろうか? 「あなたの意見がベルクソンと同じという事は、ベルクソンの意見をパクったんですか?」 残念ながら、そうではない。ベルクソンの指摘した真理は「パクれる」ものではない。他人のアイデアの形式を盗む事はできても、アイデアの源泉は盗む事はできない。ベルクソンは誰の中にあるものに対して、ある新しいパースペクティブで切り込んだだけだ。
 
 無限という数量概念において、想定されるのはあくまでも数えられるものだ。数字という概念によって切り餅のように切り分けられたものだ。そのように切り分けられたものが本質なのではない。純粋に我々の中にあるもの、あるいはこの世界の本質は、純粋な「質」であって、量ではない。
 
 だが、我々は「質」としての世界を、言葉や数字、その他の不完全な概念で表す他ない。だから、我々は不完全な言語しか持てない。完全な言語というものがあるとすれば、それがどんな意味を持つかは我々にはわからない。
 
 ドストエフスキーがあれだけたくさん書いても、まだ書き足りなかったのは、彼には言葉の先に何かが見えていたからだ。しかし、ドストエフスキーオタクのような人は、ドストエフスキーの「言葉」を絶対とする。言葉の先にあるものを見ない。
 
 「オタク」とは指が示している先を見る事なく、指をたいそう立派なものとして崇め奉る人達の事だ。素人からは、オタクと、そうではない「探求者」は同じように見える。指の先を感じている者と、指だけを見つめている者と。いずれにしろ、指のあたりを見ているから、両者は同じようなものだろう。素人はそう考えるが、内実は全然違う。オタクは知識の海に溺れて死ぬ。探求者はその先に行く。
 
 探求者に、探求する場所がなくなる事はない。世界は広大だから、ではない。「広大」のような空間的、数量的概念が答えではない。そうではなく、探索する心そのものがあまりにも深いからだ。我々が興味を持ち、生き生きした好奇心で世界に近づけば、世界はその相貌を絶えず新たにしていく。世界は更新されていく。世界が更新されていくのは、人の心が果てしなく深いからだ(「深い」というのも空間的比喩だから、厳密には間違っているが)。
 
 我々は「書く事がない」と悩む必要はない。「この先、アイデアが枯渇するかもしれない」とか「何も思いつかないかもしれない」と悩む必要はない。そんな風に悩むのは、彼が概念でしか考えられないからだ。たまにそんな人物がいる。半端な優等生が頭だけで絞り出したアイデア。それもまた評価されたりするが、それは長い旅とはならない。彼はすぐに枯れる。頭の中の概念を吐き出せば、もう何も浮かばない。
 
 偉大な哲学者や作家の人生を調べると、彼らがいつも道半ばで挫折していったのがわかる。彼らは、自分の足ではたどり着かない場所を目指したからあれほどの存在になったのだ。我々が、自分自身の中にあるものに深く気づけば、我々が「書く事がない」と悩む事はない。完全な作品は存在しないし、これからも存在する事はできないだろう。
 
 我々が手に持っている概念という道具に比べて、人間も世界もあまりにも深すぎる。それ故、我々は死ぬまで退屈せずに、旅を続ける事ができる。蝶を追って森の奥深くに誘われる少年時の記憶のように、我々はいつまで果てなく探索する事を何者かによって余儀なくされている。
 
 

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