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教養(歴史・世界)が学べる本を紹介してみる ①ヘーゲル「歴史哲学講義」(岩波文庫)

 前に、「一冊で教養が学べる本」といったものを批判した。今回はその反対に、教養が学べる本を紹介してみよう。
 
 もっとも、教養を身につけるというのはゲームの装備品のように身に着けられるものではない。それはどっちかと言うと登山に近い。しかも、山の頂点に登って終わりではなく、尾根から尾根へ渡っていく終わりない登山だ。ここで紹介する本はその入りにはいいだろう、というような意味だ。
 
 一番目の本は、ドイツの哲学者ヘーゲルの「歴史哲学講義」だ。私は友人二人にこの本を勧めたが、二人共に好評だった。そのうちの一人は自分で興味を持ってどんどんヘーゲルを読んでいった。
 
 ヘーゲルというのはドイツの大哲学者で、難解なイメージがあるだろう。しかし「歴史哲学講義」は学生への講義録なので比較的わかりやすい。
 
 「歴史哲学講義」の内容をざっくり説明すると、ヘーゲルという哲学者が、世界の歴史全体から一つの普遍性を引き出してくるというものだ。そしてその普遍性というのは「世界精神」という事になるだが、要約すると、近代のヨーロッパが一番偉い、というような話だ。
 
 ヘーゲルに対する批判としては、二点が考えられる。一点目は、あまりにもヨーロッパ至上主義過ぎる事。これは現代における人種差別などの問題とも直接に繋がっている。
 
 もう一つは、一つ目の問題とも関わるのだが、近代ヨーロッパに対して楽観的過ぎる事。これは、ヘーゲルの死後にヨーロッパを中心に、二つの世界大戦が起こった事がヘーゲルに対する実質的な反論になっている。
 
 簡単に言えば、近代は神が死んだ後の世界だったのだが、ヘーゲルは、神の代わりに「絶対精神」とか「世界精神」とかいうものを据え置いた。これがヘーゲルにとっての「神」だったのだが、この「神」は、人間に属するものだから、人間の恣意によって変化するものでもある。
 
 要するにヘーゲルは、「神」をより人間存在に基づいたものに変えて、世界の歴史・秩序を再編成してみせたわけだ。だが、ヘーゲルの後の世界大戦は、最も理性的なはずのヨーロッパの人々が、自らが生み出したものをコントロールしきれずに大惨事に至ってしまった。
 
 「ヌース(知性)が世界を支配する、と最初にいったのはアナクサゴラスだったが、いまはじめて人類は、思想が精神的現実を支配すべきだと認識するにいたったのです。ここには、まさしく、かがやしい日の出がある。」
 (歴史哲学講義 第3編 下 岩波文庫 )
 
 ここでヘーゲルは思想が現実を作り変えていく輝かしい時代について語っているが、実際には、その後の歴史はそんなに美しいものになっていない。神という軛から脱した人類は今度は、自分達が生み出したものや、自分達の欲望とどう和解するかについて苦しんでいる。
 
 …という事で、お勧めなのに、批判点を書いてしまった。これ以外に問題点はあるのだが、逆に言うと、問題点があるのにも関わらず、何故、この本を真っ先にお勧めするのか。そこにヘーゲルの重要性がある。
 
 というのは、普通の歴史書を読んでいても「歴史の全体像」というのは決して見えてこない。学校の歴史の勉強を思い出してほしい。色々な出来事の年号を記憶したかもしれないが、それら全体を貫く連関は全く教えられていないはずだ。
 
 歴史家というのは、歴史から本質を抜き出す必要はない。そもそも歴史に本質からあるかどうかもわからない。しかし、ただ歴史の事象を事細かに教えられても、我々はその断片をどうしていいかわからない。
 
 世間というのは教養というのをクイズ王と変わらないものと考えているらしいが、クイズ王は、知識を集積しているだけのマニアでしかない。知識と知識を連関させて、その本質を考えるという事はできないし、そんな事をする必要はない。
 
 しかし、そもそも歴史というものに本質があるかどうかもわからない。ショーペンハウアーの言うように、歴史はただ盲目的な意志(欲望)の運動である可能性もある。
 
 歴史という事象から、本質を抜き出すというのはだから、学問的には危険な行為であるのは間違いない。今のアカデミックな場所にいる人はそういう事をやらないだろう。
 
 だが一方では大衆にアピールする三流思想家はそういう事をやったりする。歴史の裏にはいつもある陰謀が隠れていた…とか、後ろですべてを操っていた秘密結社がいるとか…これらは、全体を貫く本質を知りたいという我々の欲求を最低のレベルで満足させてくれるものだ。
 
 問題は、歴史という断片の知識と、その全体像を統合する本質との兼ね合い、また同時に、そうしてできあがった全体像を疑いつつも、その全体像を参考にするという思考の在り方なのだが…その在り方をおそらく、最もまっとうに、もっとも満足できる形で、歴史の本質について示唆してくれる本…それがヘーゲルの「歴史哲学講義」という事になるだろう。
 
 大体、そういう意味においてヘーゲルの「歴史哲学講義」はお勧めである。ヘーゲルのような哲学者は異様に強力な観念的武器でこっちに迫ってくるので、そこにはまってしまうと非常にまずい方向に行ってしまう。
 
 だからヘーゲルの言説を本気で(事実だ)と信じないようにしつつも、その全体像を参考にして、自分の思考を作っていくというのが好ましい知性の在り方だと私は思う。
 
 そういう意味において「歴史哲学講義」から、教養の端緒がつかめるかもしれない。
 
 

 ※ヘーゲルのものの見方についてはウィキペディアにわかりやすく載っていた。特に重要なのは
 
 「東洋人は、ひとりが自由だと知るだけであり、ギリシアとローマの世界は特定の人々が自由だと知り、わたしたちゲルマン人はすべての人間は人間それ自身として自由だと知っている」
 
 という部分だ。「東洋人は、ひとりだけ…」というのは東洋の専制国家を指している。皇帝一人だけが自由、というような世界だ。
 
 ギリシアやローマは、特定の人々が自由であったが、奴隷制が存在したので部分的だった。
 
 近代のドイツにおいてようやく、万人が、国家を形成し、法律によって自らを律して生きているので、万人が自由である世界が訪れた。近代の市民社会が歴史の到達地点である。
 
 これは説得力のある見方とも言える。というのは、各人、すべての人間は自らが"自由"になる事を求めており、しかし万人が万人として自由になる為には、互いの自由が排除し合わない関係を築く必要がある。
 
 その為に国家組織を形成し、自分達によって自分達を律する法を作って、それによって自由でありかつ道徳的な世界を形成する。確かに世界はその方向に進んでいる、と言えるだろう。
 
 もっとも、ヘーゲル以降の世界を見ると、ヘーゲル自慢の近代市民社会が様々な暴虐を引き起こしたのも否定できない。だからここからはヘーゲルではなく自分の頭で考えていかなければならないだろう。


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