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やさしさのつくりかた

「30代独身、実家暮らし、ローンなし」僕は最強のステータスを持ち合わせている。

決意を新たにすること、人生を変えてやろうと誓うことではあんなにも切れたスイッチを入れ直したのに、環境を変えることはこんなにも簡単に人生を変える。去年の4月に僕は世にも珍しく30代にして実家に戻った。

僕は今年、とてもやさしくなった。やさしくなりたいと誓いを立てることなく、気づいたらやさしさが板についてきた感じがする。

傷つけられることがなくなったから、傷つけてやろうなんて思わなかったし、その必要もなかった。

とても穏やかでいられたのには理由があって、それはきっと日々お父さん、お母さんのやさしさに触れることができたからである。

2人は定年を迎え、リタイアをし、好きなように暮らしている。けんかもストレスもなく、毎週のように旅行に出かけている。好きなことをして楽しそうに暮らしている人は、人を傷つけない。その必要がないんだもの。

僕は誰かと暮らすことは、家族が社会でもらった傷やストレスを家族で分け合うことであるとも思っている。

僕が今ストレスをためていたら、2人にそれを分けなければいけないし、僕が辛そうにしていたらそれはそれで心配という形で背負わせてしまうかもしれない。考え過ぎだってきっと両親は笑うけれど、僕は自分の家族が傷ついている時はきっと自分も同じように心を痛めている。それは教室にいても同じ、子どもの悲しい顔は見たくない。

だから誰かを傷つけることは、その人の家族を傷つけてしまうことになるし、そんなことを考えたら自分の一時の感情で誰かを傷つけることをやめた。

これまで反抗期らしい反抗期を見せたことはないのだけれど、僕は昔、家族といるところを誰かに見られるのが恥ずかしかった時期がある。思春期という誰かと比べて自分の足りなさが恥ずかしい時期に、皆がこぞって悪びれてみたり、彼女を作ってみたりして、そんなステータスを連れて歩いて恥ずかしさを埋める中、僕にはそれができなかった。家族はむしろ恥ずかしさであり、一緒にいることを避けた時期は言葉を使わない思春期の人の傷つけ方だったと思う。

31歳になった今は3人で出掛けることが増えた。ステータスで風を切る必要がないぐらいには自分のことを理解し、足りていると胸を張る。まだ足りないところもあるけれど、むしろ今は2人が埋めてくれている、そんな居心地のいい家族の形がある。

中学生のみんなはもう理解してくれるだろうけれど、そもそもみんなには人を傷つけていい道理なんかなければ、人の好きを奪う権利もない。簡単に傷つけられてもいけないし、絶対に自分の感情を奪われてもいけない。

僕の周りは今、とてもやさしい感じがする。誰もいがみあっていなければ、傷つけあってもいない。偶然そこにあったように見えるやさしさは、僕が選んで、自分で作ってきたやさしさだったりする。自分がやさしいと周りもやさしくなっていく。それにやさしさは強さでありながら、弱さだから、ちょっと強い人に耐えられなくて離れていくと自分に似合うやさしさだけが残っていくのもある。

大人になるとこうして生きやすさを選べるようになるから「10年前に戻れるとしたら?」と質問されたら迷惑だな思う。

やさしさのつくりかた

僕のクラスには今、やさしい雰囲気がある。年も明けそろそろ終わりが近づき、出ていきたくない布団のような温かさもある。

特段優れたメソッドをもっているわけではない僕に、あるかもわからない担任としての功績を挙げるとしたら、元々その芽のあった子ども達を邪魔せずに横でただ楽しそうに笑っていたことにある。

4月、誰かの目を気にしてとりあえずみんなに合わせた好きを選んでいた子ども達は、今はちゃんと自分の好きなことを好きって言うようになった。あの子達にあるのは、みんな平等と習ったから、そう言って無理やり引っ張ってみんなの前に出して紹介してあげるような強引なやさしさではなく、そっとしておいてほしい時にそっとしてくれるやさしさだから、いいなと思う。

やさしさの作り方があるとすれば、それはやさしい環境を作ることにある。

僕の家には今、朝の8時から11時にそれぞれが自分のやりたいことと向き合う時間がある。その時間にはジャズが流れ、それぞれが好きな飲み物を用意し、それぞれを邪魔しない。その時間には仕事を頼まれることもない。

やさしい子どもを育てたかったら、自分自身が好きなことをして、楽しそうにしていればいいと思う。そうすると子どもは人生は好きなことをして、楽しんでいいんだと知るようになる。

中学生はなんだか楽しんではいけない風潮がある。苦しい努力の上に成り立つ成功が幸せな未来を運んでくると信じる大人のもと、楽しそうにしていると怒られる。もちろんその言葉が必要な時だってある。好きを好きなだけ、が奪う未来もあるしね。

そうして楽しいを許された者が、楽しそうに潰され、いがみ合い、お互いの好きを奪い、やさしさを失っていく。

傷つきやすい15歳が負ったその傷の数々は、ちゃんと正しい傷だっただろうか?

「やさしさって何だろう?」

道徳ではそんな広い質問をすることがある。ここに正解がないのは言わずもがな、ここに想像できるやさしさの多い人、やさしさの解像度がグッと深い人、やさしさって200種類あんねんって言える人が増えることを期待する今年がまた始まる。

いつもやさしさについて考えているような人間はきっとやさしい人なんだろう、今年もみんなの周りにそんな人がたくさんいますように。

エピローグ

休みの日はグラウンドか温泉か図書館、スタバを探してもらえば僕に会えるから是非見つけてほしいのだけれど、この冬休みにたくさんの友人と会って話をして感じたことがある。

それは、なんだかみんな柔らかくなったなということである。

言葉にするのは難しいのだけれど、提供される話題やトーン、そんなものから柔らかさを感じるのである。仲間内で誰が一番おもろいかでマウントを取っていた20代には、いじりいじられ笑いが起きるあのノリみたいな楽しさがあったけれど、今はみんなでそれぞれの生活を丁寧におしゃべりする楽しさがある。昔ほど毎日一緒にいるわけではないから距離感が難しいのもあるけれど、パーソナルスペースにずけずけと入ってくる失礼なやつが減った。そしてふとしたことで交わされる「ありがとう」の数が増えた。

大人になるっていうのは、難しい日本酒がわかるとか、横文字が増えるとかそんな感じなのかなと思っていたけれど、纏う空気感や距離の取り方、目の前の人をちゃんとできることだなって感じたここ最近の話である。

限られた時間しか一緒に過ごすことができない友人達。会えなくなっていく、それがわかっているからやさしくない時間がもったい、必要なくなっていく。今は小っ恥ずかしかった「ありがとう」を送ることが難しくない。

卒業までがカウントダウンされる週明けからの日々、丁寧にやさしくあれますように。

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