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156.豆と私

私には嫌いな食べ物がある。

《グリーンピース》という名の忌まわしき存在だ。

長身でヒゲも生えており、カテゴリーで分けたら中性的などではなく、割と荒々しい部類に入るであろう私だが、この緑色の小さな豆粒に対し、それなりの苦手意識を抱いている。

幼い頃、私があまりにもグリーンピースを嫌うので母親がカレーに入れて食べさせようという偽装工作をしてきた事があった。

苦肉の策だったのかもしれないが、"大好きなカレーになんちゅうもんを入れてくれてんだ"と猛烈な抗議行動により山田家ではカレーはおろか、グリーンピース自体が登場する事が無くなった。それ程の天敵である。

まあ親心というか、"何でも食べないと大きくなれないよ"という事かもしれないが、今や私の身長は185センチ。この身長にあの豆は1ミリたりとも貢献していない。それでも世界基準の身長になれたのだ。あの抗議は間違っちゃいなかった。

ただ大人になると幼少の頃ほどの嫌悪感はなくなっていた。昔はアレを口に入れ、噛んだ時に広がる味が嫌悪以外の何者でもなかったが、出されれば無表情で食べる事が出来るようになった。

《嫌いというのもちょっと違うかな》なんて思っていた矢先、とある中華料理店であんかけチャーハンを頼んだ際、あんかけの中に大量のグリーンピースが投入されていた事があった。軽く見積もっても人が食べる一年分の量。その時は同席した友人がいたのでそいつに食ってもらい難を逃れたが、それが引き金でグリーピースに対する嫌悪感を思い出し《やっぱ嫌い》という地位を確立させた。

そんな事もあり、例えば初めて行く店で普通のチャーハンを頼む時もグリーンピース混入の有無を店員に確認するし、チャーハンだけに関わらず、お店でメニュー表の写真に映る緑色の粒々がネギが豆か判断がつかない時はとりあえずお伺いを立てるようにしている。

グリーンピースが必ず入っていなければ成立しない料理など無い。無いがその分、店主のセンスや気分次第で神出鬼没的に投入されるという怖さがあるのだ。

食べた結果、ポジティブな気持ちにはなれないし、未だかつて"美味しい"という感情を微塵も感じた事は無い。数個なら無風でやり過ごす事はできるが、自ら食べる方向に行く事はしない。幼い頃の名残というか、植え付けられた防衛本能のようなものである。

先に述べた様に、こいつが入っていないと成立しない料理など無い。味のアクセントにもなりゃしない。なのに何故、わざわざこいつを料理に使用するのかが分からない。長年の疑問だ。

そんな事を言うと、人は口を揃えて【彩り】という言葉を使う。

料理の見た目が華やかな方が良いのは分かる。分かるが、彩りを司る食材は世の中に沢山あるわけで、その緑担当を彼に任せるのは遺憾なのだ。地球には他にもたくさんの緑があるじゃないか。そもそも、グリーンピースなんてものは大衆料理にしか出番が無いのだから、見た目もへったくれもないと思うのだ。

豆が無いから華やかさに欠け、食欲が減退するなんて事はありえないわけで。大衆料理は料理に見合った調味料をベシャ掛けして食うのが一番美味いのだから、見た目は二の次。いつだって胃の中でオールインワン、食えば一緒だろう。

百歩譲ってシウマイの上のグリーンピースは許している。あれは彩りというか、作る側が個数を数えやすい様に置いたのが起源らしいからだ。なんとなくそれはアイディア賞という事で無罪放免にしている。

だが更に納得のいかないのが、世間では"華やかさの権化的"な立ち位置で、主婦達に絶大な人気を誇る、あのグリーンピースを要する植物界の3ピースバンド"ミックスベジタブル"だ。あの支持のされ方は腑に落ちない。あれはもう、苦手中の苦手だ。
言うなれば見た目だけが売りのバンドだ。本来、人参さんは生で食べられるほどの付き合いだが、ミックスベジタブルの人参さんだけは味が美味しいと感じない。そこに畳み掛けるグリーンさんの追い打ち。唯一の癒しはコーンさんの朗(ほが)らかな甘味だけである。あれを家庭内だけならまだしも、メシ屋で平気で出す所があるのだ。残念ながらそんな店は信用していない。

どうだろうか。私の嘆きがお分かりいただけただろうか。恐らく日本一長いグリーンピースへの提言だ。

何故か世間はグリーンピースが嫌いと言うと『子供かよ』と半笑いの反応を浮かべるが、ご存知の通り、私は子供ではない。陰毛がしっかり生えた大人である。その大人がハッキリと嫌いというアンチテーゼを展開しているのだ。もしそんな大人を見た時は、是非とも茶化さないでいただきたい。ちゃんと理由があるのだ。

あと、もしもグリーンピース農家の人がこれを見ていたら、なんかごめん。

おわり

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