山田 浩貴――芸術の楽園
作曲家は作品を創造するのではなく発見する(ジュリアン・ドッド)
この言葉は、短歌について、寺山修司(1935-83 歌人、詩人、劇作家、演出家、映画監督、競馬評論家とマルチな才能を発揮した)が子どものころの思い出を語った言葉である。牢獄という言葉から、創造性を発揮するにあたって、強い制限を意識していたことがうかがわれる。また、「三十一文字という入れ物が短歌の特色となり、創造性をはぐくむ」という逆説まで考えが至らなかったことも示している。 美術においては、キャンバスに何か描こうとする際、そうした支持体(キャンバスや紙など)を超えて描くこと
日本のバンド、フジファブリックが演奏する『若者のすべて』は、志村正彦(1980年7月10日~2009年12月24日、29歳没)によって作詞・作曲された。 2007年11月7日にリリースされたので、それから志村は2年を生きることができなかったことになる。 この曲のサビの冒頭にある「最後の花火」。 これには、深掘りすると二重の意味がありそうだ。 一つは「夏の終わり」という観点、二つめは「志村の死」という観点からの意味のとり方である。 後者は、今となっては故人となった志村
このような美文でしか伝えられない事柄がある。 流枝の松とは、水面に平行にのびている松のことらしい。 このような用語があること、造園術の奥の深さ、繊細さに驚嘆する。 自然を矯(た)めて美をつくる技術には型があり、昔から伝たわってきたものがあるようだ。 「流枝の松」という言葉に触れたのは、その一端を垣間見たに過ぎない。 それがねらう効果というのも、まことに玄妙なものがある。
作庭における「石の心ばえ」とは何だろう。 無生物の心ばえなど、もともとないわけだから、これはもともと比喩である。 しかし、あたかも石が心ばえを持っているかのように読み手に迫ってくる。 霊感を重んずる考え方にも通じるところがあるのだろう。 自分の考えを作品に注入するというより、そこに客観的・俯瞰的な観点を加える「余地」を与えること。 自分の力を出し切ってしまうという自己満足に陥らないこと。 「天才」はそうしたサムシングの部分が大きいともいえる。
客観的事実をただ不用意にならべても、人を衝き動かす迫真力は出てこない。それにひきかえ、現実感のあふれた虚構には人間的真実がある(中村良夫) 『風景学入門』(中公新書)より つまらないノンフィクションと、すぐれたフィクション。 何のためにウソをつくるのに時間を費やすのか? 事実は作家性を拒むが、虚構はそれを受容する余地がある。 余地には人間的真実が入り込む。
ヘンリク・ベックの水彩画(上掲)『人影なき、焦土と化した夜のワルシャワ』は、1944年、蜂起後の破壊されたワルシャワの掩体壕で描かれた。 ベックは蜂起が終わった後も同地にとどまった。 劣悪な生活環境、恐怖、水道水の欠乏といった逆境にもかかわらず、ベックは制作を止めなかった。 (この記事はアプリ「デイリーアート」の内容をもとにして書かれた。翻訳: Hiro Watanuki) この執念は見上げたものだ。 筋金入りの芸術家精神がそこにはある。 危機に陥ったとき、制作を
鉄道駅の発車メロディーの作曲者に語った言葉である。 これは音楽の影響力を賞賛したものであると同時に、嫌ったものであろう。 音楽は物理であり、心理でもある。 作曲をする者はそれを理解していないといけない。でないと、砂をかむような音楽を垂れ流すことになる。
大自然に踏み込むのは非日常的な出来事に違いない。 大自然にあって自己の肉体は点景だろう。点景があってそれを取り巻くものへの視点が生まれる。 ただそこに自然があるわけではない。 視線があってこその自然だということもできる。 だが、そういう視線はすでに「政治」の色彩を帯びているのではないか。 人間の、自然に対する征服欲がそこに表れているのである。 そうしたものは容易に看過されうる。 そうしたものを剔抉する批評精神を見出すのは稀有なことだ。
ここでは二つの例を取り上げる。 ・ショパンの遺言に背いて「幻想即興曲」を出版したユリアン・フォンタナ ・カフカの遺言に背いてその作品を出版したマックス・ブロート フォンタナとブロートというよき理解者は、ショパンとカフカの仕事を破棄するにしのびなかった。 非凡な芸術家の周りにいたそうした友人こそ、作品の価値を見抜く炯眼(けいがん)を持っていたと言わざるをえない。 芸術家は自身の作品を客観的に理解できているとは限らない。紹介者という、芸術史に欠くべからざる人々。この巧まざ
花とは、咲くによりて面白く、散るによりてめづらしきなり(『拾玉得花』世阿弥) 散って咲くのか、咲いて散るのか。 いずれにしても、咲くことばかり考えて、散ることを考えていないことが多いのではないか? 咲きっぱなしの花はあり得ないのと同様に、芸もいつまでも同じというわけにはいかない。 巨匠といわれる芸術家は一作ごとに死んだからこそ、傑作を世に問うて評価されてきた。すぐに評価されるとは限らない。時間差はあるかもしれないけれど。 散ることに心ひかれる心を持つものは、刷新され
美的判断の場合には、対象が何であるかを捉えることが目的ではなく、想像力の仕事が悟性へと受け渡されることなく、両者は調和的な浮動状態を保ち、この状態が快を引き起こす。そして、普遍性の根拠となるのも、想像力と悟性のこの関係であり、これがすべての人の共有しうるものなのである。(佐々木健一) 想像力と悟性。 この両者の調和的浮動状態が快を引き起こす、とはどういうことだろう。 想像力だけでも、悟性だけでもだめ。 想像力だけでも、浮遊感はある。それを引き止めているのが悟性とも言え
世阿弥の時代には、「立合」という形式で、能の競い合いが行われました。立合とは、何人かの役者が同じ日の同じ舞台で、能を上演し、その勝負を競うことです。この勝負に負ければ、評価は下がり、パトロンにも逃げられてしまいます。 立合いは、自身の芸の今後を賭けた大事な勝負の場でした。しかし、勝負の時には、勢いの波があります。世阿弥は、こっちに勢いがあると思える時を「男時おどき」、相手に勢いがついてしまっていると思える時を「女時めどき」と呼んでいます。the 能.comより 世阿弥はパ
以前は音楽を聞いたり絵を見たりするのが大好きだったのに、いまはそういうものが美しいことがまるでわからない。 音楽を音楽として感じ取ることができない。 音は聞き取れても、統合された作品としての時間構造を理解することができないのだ。 また、 絵についても部分と全体との関係を見失っている。 ようするに、 作品とは、享受する者の頭の中で組み立てられたものであるということがわかる。 創作者の頭の中にも、統合された一つの作品が存在する。 そうした「像」が、受け取るほうの頭
われわれは、他人(ひと)によって編集されたもの(芸術作品など)を受容する。あるいはしない。 素材をボンッと置いても、それを創作物といわない(もちろんそうしたものに思想などを込めることもあるが)。 作品にしようとすれば、どこかしら素材は加工される。 それは「作家性」による。 素材をどれだけたくみに作品に仕上げるか、だ。 しかし、作家性の振れ幅が大きければ大きいほど有効であるとは限らない。
この作品はケーテ・コルヴィッツ「母と2人の子」である。 作品は1927/37に制作された。 コルヴィッツは第1次大戦で息子を、第2次大戦で孫を戦死で失っているが、つくられたのは大戦間時代である。 この作品は彫刻作品としてまとまりのあるフォルムを持っているけれども、まとまりすぎているきらいがある。 2人の子を抱く姿は、母の顔が見づらいことも相俟って、何か、病的な印象を与える。 不安というものに冒された母性というべきか。 この作品には息子の死が影を落としていることは想