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追悼:和田誠さんの思い出〜和田誠展を観て

 一昨年亡くなった和田誠さんの展覧会に行ってきました。素晴らしい展覧会だったのと、生前にお付き合いをさせていただいた経験が僕にとって本当に貴重な時間だったので、その思い出を記したいと思います。感傷的になったらすいません。

これまでの人生で一番尊敬している人

 今もあるのかわかりませんが、小中学生の頃に「尊敬する人は誰ですか?」という質問に困った記憶があります。歴史上の人物もリアリティ無く、スポーツ選手もファンではあっても尊敬という言葉では、気持ち的に収まりがよくありませんでした。大人になって、そんな質問を受ける機会はなくなりましたが、今なら迷わず即答できます。尊敬する人は和田誠さんです。そこに今は亡きと前置きをつけなけばならないことが悲しくてたまりません。

 多才な和田さんは、ジャズも大好きでした。当時僕がマネージメントしていたピアニスト佐山雅弘が、和田さんが構成演出するショーのコンサート音楽監督を務めたことがきっかけで仲良くなり、僕も一緒に懇意にさせていただきました。
 神宮前にある和田さんの仕事場の二階には、16mmフィルムの映写機があり、いつでも上映会ができる環境でした。それを知った佐山さんが、和田さん秘蔵の(ご本人曰くマフィアから輸入したww)音楽映画やディズニー・アニメの上映会を毎月やりたいと言い出して、僕は幹事役でした。音楽家や俳優やクリエイターなど、有名な方もいらっしゃいましたが、集まる方は皆さん気さくで、和田さんを好きな人たちが集う素敵な時間でした。たとえば、阿川佐和子さんは常連で、親しくさせていただきました。本当に素敵な女性です。

映画『真夜中まで』製作

 映画『真夜中まで』は、和田さんによるオリジナル脚本で、トランペッターが主役の物語です。音楽プロデューサーの立川直樹さんと監督の和田さんとのお話を伺いながら、音楽監督佐山雅弘のマネージャーとして、サウンドトラック制作、音楽シーンの撮影、そして映画公開時のイベントなどに携わらせていただきました。主役は真田広之さんですが、バンドメンバー役は実際のミュージシャンである佐山雅弘バンドでした。音楽のリアリティが溢れています。
 主演の真田広之さんの役への取組にも頭が下がりました。生まれて初めてマウスを持つところから半年程で、自らトランペットを吹いての撮影でした。サウンドトラックで演奏したトランペッターの五十嵐一生さんに付いて猛練習をされていました。持ち方、ポーズなどの練習と、実際にマウスピースで音を出す楽器の初歩練習を同時並行で取り組み、「トンネルを両側から掘って、たぶん間に合わないけれど、クランクインまでに繋がることを目指すんです」と語っていられるのを聞いて、一流の俳優の凄みを感じたのを覚えています。
 和田さんの監督ぶりも、ものづくりの厳しさと、人としての優しさはこんな風に両立するのだなと感心しながら拝見していました。映画界の人たちは「〜組」という言い方がお好きなのですが、「和田組」はトップの人柄で現場の雰囲気が常に明るく温かいです。
 音楽への愛情と製作者たちの熱意が込められた素晴らしい映画なので、機会があれば、是非ご覧になってください。

和田誠「100冊の本」パーティ

 和田さんの著作が百冊になったことを記念して行われたイベントでも裏方として参加してました。和田さん構成演出のコンサートでは、日本の舞台監督界の草分けである金一浩司さんが必ず登場します。いち早く存在を覚えられてしまった僕は、金一さんの現場では、朝イチに会場入りしインカムを付けて現場スタッフとして働かされます。他の現場では無い事ですが、金一さんは人の使い方が絶妙で、楽屋と舞台と受付のつなぎ役のクッションなどで僕を配置して、現場をスムーズに流すべく、インカムで指示をだされていました。結果、走り回ることになりますが、清々しい気持ちの現場でした。
 パーティでは、当時中学生の和田唱君が、一流ミュージシャンをバックに、ギターを弾きました。溢れる才能が輝いていたのを覚えています。僕が関わってデビューさせたいと思いましたが、本格的な才能なので、もう少し年齢が進んでからかなと思っていたら、その日に客席にいらしていた渡辺ミキさんがすぐに動いて、マネージメントを始められて、悔しかったのも良い思い出です。バンド、トライセラトップスのリーダーとしての成功はみなさんもご存知の通りです。

微笑みが絶えない平野レミさんの食卓

 奥様平野レミさんとの関係もとても微笑ましいものでした。TVで拝見する通りに、早口で思ったことをすぐ口に出されるレミさんは、正直な方でした。お料理も本当に上手で、代々木上原にある和田さん宅にお呼ばれする時は楽しみにしていました。個人的に親しくさせていただいたので、最初の結婚では、図々しくも和田さんレミさんご夫妻にに仲人をお願いしてしまいました。その後、離婚することになって報告に伺った時も、笑って許してくださいました。同じ仲人でミュージカル女優の島田歌穂さんと結婚されたピアニストの島健さんからは、こっぴどく叱られましたけれどw

 多忙なお仕事の中で、ご家庭も大切にされていて、ある雑誌のアンケートで「生まれ変わったら何になりたいか?」「自分の子供、俺が可愛がるから」って答えていたのは感動しました。毎日のゴミ捨てもやられていた話を伺って、仕事を言い訳に、家事をおろそかにしすぎている自分が反省させられました。

肩の力が抜けた、強い矜持

 日本を代表する、とてつもない実績をもつクリエイターでありながら、気さくで正直で、そして本当に優しい方でした。同時にクリエイターとして筋が通らないことには妥協はしません。本の装丁を数限り無くされた和田さんですが、POSコードが出てきた時に、装丁の中にコードを入れるのが条件の時は断わられたそうです。和田さんの装丁で、外すことができる帯や表面だけを装丁する文庫本の裏面以外にコードが入っていることは無いはずです。「だってミュージシャンが、自分のアルバムの最後に勝手にピーとか音入れられたら嫌だろう?」と、静かに明快におっしゃってました。
 仕事は激烈に早く、自分の中には全てあってアウトプットするだけなんだなと思いました。今回の展覧会で履歴を丁寧に拝見すると、子供の頃からの最もジューシーだった頃のアメリカンアートフォームへの傾倒が源泉になっていることを確認しました。超一流の才能がどんなものなのかを間近で拝見できたのは、プロデューサーの僕にとって大きな財産になっています。

 おそらく文化勲章だと思うのですが、国からの勲章を断った時のお話もびっくりしました。ああいうのは正式決定の前に電話で打診があるのですね。「要らないです」と即答だったそうです。「だって要らないよー」って微笑んでいる態度が全くの自然体で、めちゃくちゃカッコ良かったです。

 『話の特集』という名雑誌の創立時の思い出を矢崎編集長が語られている中で、「和田誠というイラストレータがすごく生意気だったけど、依頼した」みたいなことがあって、生意気と評されるのがあまりに不似合いに感じて、和田さんに質問したら、「若い頃はよく生意気って言われてたんだよね。昔から今と変わってないからね。」と言われていて、妙に納得したのを覚えています。常に自然体で他人に接して、仕事されていたのでしょう。

クリエイター主導の広告表現の時代

 『銀座界隈ドキドキの日々』という本の中で、ライトパブリシティ社の新入社員だった頃の様子が描かれています。後輩でカメラマンとして篠山紀信さんが入社してきたり、同輩の横尾忠則さんを起用したりと、超大御所クリエイターたちの若い頃のアクティブな様子が描かれています。草創期の広告界が、クリエイティブ主導だった様子がわかります。展覧会でもその頃の魅力的な作品がたくさん展示されていますが、電通など大手代理店が仕切って、システマティックになる前の広告業界には、こんな活力があって魅力的だったのだなと羨望の眼で眺めました。

 好きなジャズのジャケットをモチーフにした版画を作られている時に、アーティストプルーフ版をいただいたのは感動しました。「刷り師としては、まだアマチュアなんだ」と言いながら、自ら刷られた版です。死ぬまで家宝にします。今は両親に奪われて、実家のリビングに飾られています。
 和田誠展の無数のポスターの中には、僕の会社BUGコーポレーションが企画したコンサートのものもいくつか混じっていて感激しました。破格に安いギャラでお願いしたはずですが、原画はちゃんと残していただいていたんですね。

 僕が「クリエイター・ファースト」という価値観を崇高にあるべきものとして素直に信じられるのは、和田誠という最高級のクリエイターと近くで接する機会を持てたからかもしれません。最高に素晴らしい方でした、そして本当に本当に大好きでした。亡くなられたことは、寂しくてたまらないですが、たくさん残された作品に触れられるのは幸せなことですね。
 天国で佐山雅弘のピアノを聴きながら絵を描き続けているかもしれません。亡くなったあとも、作品が残ることは素晴らしいですね。色んな人の心の中で、和田誠さんは生き続けることでしょう。もちろん僕の中ででも。
 死ぬまで忘れません。合掌。


モチベーションあがります(^_-)