子ども、大人?[読書日記]

ハックルベリー・フィンの冒けん マーク・トウェイン著 柴田元幸 訳 (研究社)

まず、翻訳がすばらしいと思う。
ハックの語りが絶妙に子どもらしく、かつ物語に入り込みやすい文章になっている。
しかしそれでも、原作の意図的な誤りを日本語に訳すのは難しいらしい(訳者解説より)。
日本語のほうがお行儀が良いのかもしれない。
そして、日本語にはもっと自由な言語的表記ができるようになる余地がある、ということなのかもしれない。

さて、ハックの話。
彼は不自由ない暮らしを「未ぼう人」の家でしていたのに、本人からしたら、それはマナーとか何やらで窮屈な生活だった。
彼の父親はアルコール依存症で暴力もするし、(当時の)ありきたりな価値観の上に立っていて黒人差別は当然のようにするのに、父親に連れ去られた後の生活を「(ムチで打たれる以外は)わるくない」とも思ったりもする。

虐待三昧の父親との生活が「それもいいかも」と思えてしまう生活。
それはかなり過去のこの作品のなかだねのものではなく、今もある。きっと。

ぼくは何ができるだろう。
ハックの自由な姿を読みつつ思う。
うちの子たちは、こんなに自由に考えたり動いたりできているだろうか。

幼い子どもはいま目の前にいる親を「こんなもんだ」と思うしか選択肢がない。
ぼくとしてはせめてなんとか、子どもたちが成長してから「よい日々だった」と思ってもらえるように生活していきたい。

また、ハックと逃亡するジムもすてきな人物だ。
ハックのまっすぐな部分がかすむほどの、ジムの純粋な思考。
二人のやりとりが微笑ましく、ときに痛ましい。

ハックはとても自由奔放にみえるにもかかわらず、当時のその地域での価値観、奴隷は私的財産というものが、知らず知らずのうちに植え付けられている。
それでもジムと過ごしていく中で得ていくものがあった。
ハックは「社会の常識」と自分の気持ちのあいだで葛藤しながらも、ジムとの日々で生まれた自分の気持ちを次第に素直に受け入れていった。

子どもが今そこにいることで身に染みていく価値観は、とてもおそろしい。無邪気なだけに、そこに入っていく価値観はまわりからの影響力が大きい。
けれどそのまわりだって、必ずしも正しいわけではない。
だから読書という行為が必要なんだ、と強く思った。
過去の書物を読んで、そこにある価値観に違和感を感じることで思考がクリアになることもある。今までにない新たな価値観を書物から得ることもできる。
自分が知らなかったことを知ることができる。
そういうことをしていかないと、つまり自分が見知った馴染みのある心地よい価値観のなかだけで生きていくと、人はいつか誰かを死に追いやるのだと思う。

ハックが経験したジムとの冒険が、彼自身の価値観を揺るがしたように。

そんなハックとジムは、川を流れ「世間」に出会っていく。そこには抗争による殺人もあれば、泥棒も嘘つきたちもいる。
彼らに対するハックの反応は子どもらしく素直だったり、妙に大人びて達観していたりする。
それが子どもらしさ、とも言えるのかもしれない。

後半、ハックは「よし、おれは悪いことをしよう」と決心しジムのために動こうとする。
彼の言う「悪いこと」は社会的に認められていないことではあるが、現代でこの物語を読むぼくにとっては悪いことではなくむしろ素晴らしいことだ。
社会や世間が押しつける「良いこと、悪いこと」は変わっていく。そこに流されずに自分で考えて決められることもまた、「子どもらしさ」のみが持ちうる能力なのかもしれない。
不自由を享受するしかないのも、そこから脱却しようと足掻くのも、子どもらしさが生む力なのかも。

そして物語の後半では、トム・ソーヤも登場する。
行き当たりばったりで考えていくハック、「しゅぎ」が先行して自分の考えばかり押しつけるトム。
どちらも子どもらしく、大人みたい。

要するに、大人なんて子どもなんだ。
「いいことしようがわるいことしようがカンケイない、人間の良心ってやつにはふんべつもなにもありゃしない。どっちみち人をせめるようにできてるのだ。(中略)人げんのうちがわで、良心ってのはなによりゴソッと場しょを食うのに、なにもいいことなんかない」(p.419)
と、ハックやトムも感じているように。

まあ、なにを語ろうが、作者が物語の前に「この話に主題を探すものは起訴される。教訓を探す者は追放される。構想を探すものは射殺される」という文章を置いているから。ぼくはただぼくの思ったことを書くしかない。

主題も教訓も、知ったこっちゃない。
けどせめて、物語を体験しているあいだに得られたもの、浮かび上がってきたものは残しておきたい。

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