悩み、だらだらと考えたこと[読書日記]

「相模原障害者殺傷事件」 朝日新聞取材班 朝日文庫


この本を読み終えたのは1年ほど前だった。

いつもなら読了後に感想や記録を残すのだが、本書の場合はうまくまとめられずにそのままメモだけが置かれ、1年が経過していた。

ぼくはずっと「生きる意味」というものがあると思ってそれを探しながら成長してきた。
けれど、実は意味なんかないのではないかと思うこともある。それでもやはり、子どもたちと過ごすなかで、シンプルに生きる意味を感じることもある。

そんななかで本書を読み、生きる意味を持つことで弊害が生じることも、逆に生きがいを感じることもあると思った。
しかしそれらをどう言葉にすればいいのかわからず、ずっとクラウド上にメモだけが放置されてきたのだ。

しかし、その存在はぼくのなかに沈殿し続けていて、ふとした時に浮かんできて、やはりそのまま据え置くわけにはいかないと思い、けれどまとめるだけの気力は湧かず、ということを繰り返してきた。
それでも、1年経ってようやく、どうにかしてまとめてみようと思った。

本書を読んでまず感じたのは、裁判の記録などにある彼の言葉のちぐはぐさだ。コミュニケーションに困難さを感じるほどの。

最初はそれについて一つひとつ記述することはやめておこうと思った。
キリがないし、彼のずれた言語的コミュニケーションについていちいち突っ込んでも、不毛な気がしていたから。

しかしやはりそれらについても触れながら記述していこうと思う。
長くはなってしまうが、個々に対する記述の積み重ねにより、考えたことの全体像が浮かび上がってくるのではないかと思ったから。

まずは[第1章 起源]から、彼の生育歴をみてみる。

小学校4〜5年生の頃、障害児の送り迎えに来ている母親を見て「親が疲れ切っていて大変だ」と思ったり、中学校では飲酒や喫煙、万引きに加わったり不良少年との関わりもあったらしい。(p.22)
そういったことに流されてしまう傾向は誰しもあることだとは思うが、やはり彼は流されやすいタイプではあるのだろう。

その後、高校の調理科に進学した時のエピソードとして、部員を殴った、リーダー的存在だった、怒りっぽくて教諭に注意されるなど気に入らないことがあると教卓を投げたりゴミ箱を蹴ったりした、とある。(p.23〜)
ここからは、衝動性の高さがうかがえる。

一方で大学では「誰とでも分け隔てなく付き合い、人の輪に入れずにいる後輩に助け舟を出す優しさもあった」(p.26)
らしい。
その後、タトゥーや危険ドラッグにも手を出したようだ。

卒業後は運送会社に就職したが、古くからの知人の話を聞きやまゆり園へ興味を持ち採用試験を受け、働き始める。

当初は「楽な仕事で楽しい」「障害者はかわいい」と。「天職」とまで言っていたらしい。(p.31)

しかし2年目に入った頃から、「かわいそう」などというようになり、「職員が死んだ魚のような目をして希望なく働いている」などというようにもなった。(p.32)
職員の暴力、家族が見捨てているという印象、利用者の「わがままな」姿を感じている。(p.32)

検察官が「障害者が裸で走り出し、食事を流し込まれ、職員は人として扱っていない。そういった経験を経て重度障害者はいらないと思ったのか」と聞いたときには、彼は「はい」と答えた。(p.35)

しかし、明らかに途中から思考が偏り病んでいる印象を受ける。

彼には思い込むと周りが見えなくなる傾向もあるようだ。ひとりで突っ走って、思考が固定化されていったように感じられる。

そして、まわりへの障害者不要論の暴露から、衆院議長公邸への直訴へと至り、その結果緊急措置入院となる。

p.40〜にある手紙では、論理の飛躍が見られる。それが病的なものなのかどうかは、ぼくは医師ではないのでわからない。
しかし文脈が飛んでいることや、その場で伝えるべきところではないものまで書かざるを得ないような心理的状況がうかがえる。

総じて、彼には言語的な情報だけがどんどん上乗せされていっているだけで、本質的な思考回路というものが欠けている印象を受ける。
幼少期の記述から感じたように、流されやすく衝動性が高いことからそうなるのだろうか。

こうやって彼が残した言葉を読んでみると、ネット上などで「言いたいことはわかる」とされていたその主張や論拠となる信念の薄っぺらさに気づかされる。
彼の主張は無知や衝動性から成り立っているだけではなかろうか。

さらには、「イルミナルティ」への傾倒があり、周りからの意見は耳に入らない状況へと陥る。(p.47〜)
このあたりになると、正直「まとも」な精神状態だったとは思えない。

[第2章 面会]では、事件後の面会や読書をとおして、彼の考えが練られていった可能性があると記述されている。

自分がしたことに対して、後付けでさもまっとうな理由をつける。
人間ってそんなものなのだろう、とは思う。人は自分のおこないを正当化したいから、意識しているか否かにかかわらず、それらしい理由をあとからつけたがるものなのだ。

それでも、彼の場合は抽象的な質問になると、その答えがちぐはぐになる。突然、会話の歯車が狂うというか、確信部分に入ると返事がずれている。

そもそも彼の言う「心失者」の定義(=「理性と良心を持たない」)は曖昧だ。しかも、彼のインタビューの応答を読んでいても意味がわからないところが多々あって、彼が「話せない」と言う障害のあるかたがたの方がよっぽど、その言動を見ているだけで想いを理解できることもある。

そして、「人の金と時間を奪う」ことはいけないらしいが、みんなそうやって生きているのではないか、とも思う。
同じように「介護というのは自然に反している」とも言っている。
これは一見真っ当だし多くの人が賛同しそうな言葉だが、ぼくにはそうは思えない。
人類は厳しい環境のなかで周りと助け合って生きていくことで進歩してきたと思うから。

科学技術の発展だって、自分が「楽をしたい」だけではなく、人を「助けたい」という思いが影響していることもあるだろう。
そうやって助け合う範囲が次第に大きくなるにつれて、社会はどんどん生きやすくなっていったのだと思っている。
なにかしらの不都合を感じているものへの思いやりが、より生きやすい社会を志向し、生きやすい社会になっていくからこそ、余裕ができてさまざまな技術の発展が起こったのだろう。

また、情報を入力することと表出することは別の機能だ。
だから名前が言えなくたって、想いを表現できなくたって、たくさんの情報を拾って心のなかはとても満たされていることだってあり得る。

こんな当たり前のことを無視して殺す相手を選んでいることから分かるように、彼はおそらく障害者支援について学んでいない。
奇声をあげることや暴れてしまうことについて「どうしようもない」と考えているが、人それぞれの感覚機能の違いや発信できないことから生じているストレスなどについて、なんにもわかっていないのだ。

[第3章 裁判]に入っても、彼のなかで「障害者は有害」という意見は変わらない。

有害とは人に迷惑をかけることのようだが、「迷惑をかけること」を否定すれば、人は自分ですべてをおこなわなけらばならなくなるのではないか。
そして「有害」かどうかは、関係性やそれぞれの立ち位置によって変わるものではないだろうか。

ぼくにとって大切な誰かも、別の人間からしたら「有害」なことだってあるだろう。
ぼくがどれだけ「迷惑」をかけないようにしたところで、ぼくは誰かが作ったものを着て、誰かが育てて殺してくれたものを食べ、出したゴミは誰かが回収してくれる。
それらは職業としてサービス提供されているものだから「迷惑」ではないので良しとされるのだとしよう。
だから、働いている人たちは良くて、働いていない人は不要だ、という意見にもなるとしよう。

しかしぼくらの日常の人との関係性は、サービスや金銭、物品の授受だけから成り立っているのではない。
そこには当然、目に見える利益や得するもだけが介在している関係だけではなく、気持ちや感情のやりとりがあり、そのときに具体的な現実的な利益なんかなくても、生きがいや幸せを感じたりしている。

では、彼にとっての「幸せ」とはどんな状態を意味しているのであろうか?

そもそもその定義に不備があるから、他人のことを勝手に「幸せでない」「迷惑」と決めつけているのではないだろうか。
だからこそ、彼自身がいつまでたっても自己肯定感が足りないままで、そんな自分を認められずに、けれど「自分は悪くない」「役に立つ人間だ」と思いたくて、自分が勝手に「不幸」と決めつけた人々を殺めたのだろう。

それでもやはり、「重度障害者は生きている意味がない」という類の問いに対して、答えに窮する人がいるかもしれない。そこに悪意はなかったとしても。

しかし重度障害者であるかどうかにかかわらず、「あなた自身には生きている意味があるのか?」と問われれば、ぼくはきっと答えに窮してしまうだろう。

ただ、果たして意味や役に立つことは、生きていくための前提なのだろうか?

〈2020年1月24日 第8回公判〉(p.184〜)において、彼は「お金が欲しい」「役に立つことをしなければ」「障害者を殺害しなければ」という思考回路だったと記されている。
そして殺害したらお金が入ってくることについては、「どうやって入ってくるのか考えていないがお金をもらう権利がある」「細かいことを考えませんでした」と答えている。

また、「お金と時間を奪っている限り、愛してはいけないと思っています」とも言っている。
愛することに理由が必要だと考えているたり、「奪う」とか「奪われる」とか考えざるを得ないところに、彼に何かしら欠けているものがあるのではないかと思ってしまう。

「働けない人を守るから、働かない人が生まれる。支給されたお金で生活するのは間違っている」とも言っている。しかし、働けなくなっても守ってもらえるという安心感があるからこそ、社会にゆとりが生まれ、安心できるのではないか。それが、穏やかな日々を過ごせることにつながるのではないか、とぼくは思っている。

自分がいつ排除されるかわからない不安に満ちた社会は、誰にとっても不幸なはずだ。
そしてそうやって社会全体がぎすぎすしていくことで、争いや憎しみが生まれやすい土壌となっていくのだと思う。

〈2020年1月29日 横浜拘置支所での面会〉(p.192〜)では、記者の「2、3年働いて、障害者が「かわいい」とはおもわなくなったのか」という問いに対して、「僕がそうっていうわけじゃなくて、2、3年経てばみんなそう思う、現実に気づくと思います」と答えている。

この決めつけが危険なのは、ほとんどの人が「重度障害者」と呼ばれるタイプの人たちから隔離されて生活しているなかで、彼の言葉が「そういうものだ」として誤ったまま納得されてしまう可能性があるからだ。
現場を知らない、上辺だけの情報をさらっていくような人は、彼の薄っぺらい意見に同調するかもしれない。
けど、実際そこで働く人のほとんどは、そんなことは思わないよ。

しかもそもそも、「かわいい」と思う必要もない。
かわいかろうがかわいくなかろうが、何年も一緒の時間を過ごしていれば、それぞれの想いを汲み取れるようになって然るべきだ。それが仕事なのだから。

彼の問題は、仕事をただ介護、身体的な介助のみに捉えていて、裏に隠された想いを読みとる方法を学ぶこともできず、かつ、その能力がなかった自分に気づけなかったことだ。
支援とは、一人ひとりの生きづらさに気づいてサポートしていくことなのに。

結局、整形したりタトゥーを入れたりと自分の見た目を気にしていたように、表層的なところにしか関心がもてない。だからこそ、その理屈も上滑りしているし、こうやって大量殺人を起こせるような心理状態に至ったのだろう。
(いや、整形もタトゥーも悪いことではないのだけれど、彼の場合はそういう風に思えるってこと)

なお、社会学者の最首悟が「被告は人間の尊厳、平等、命の尊さを「タテマエ」として否定する一方で、自らは礼儀正しく振る舞うなど、見た目をよくして「タテマエ」を重視している」(p.189〜190)と評してもいる。

〈2020年2月5日 第10回公判〉(p.200〜)では、遺族との一問一答が記述されている。
遺族が「コンプレックスが事件を引き起こしたのではと思う」と発すると、彼は「ああ、確かに。こんなことしないでいい社会……。歌手とか野球選手になれるならなっています。自分ができる中で一番有意義と思ったんです」と答えている(p.204)。
いやいや、発言が幼稚すぎる。

さらに、負傷した職員の代理人が上記について「歌手や野球選手といった注目を浴びる人生を歩めば事件を起こさなかったのか」と聞くと、彼は「人に注目されるのが目的ではなく、楽しそうだからです」と返し、続いて代理人が「楽しそうな人生を送れば起こさなかったのか」と聞くと、「そうだと思います」と答えたらしい。
やはりあまりにも稚拙だ。
というか、このやりとりも、彼の本心と捉えるよりも、ただ反射的に言葉を生み出しただけではないのか、と感じてしまう。

ただし難しいのは、弁護側証人の医師が「被告は大麻乱用で病的に高揚し、自分の考えが現実的かを検討する能力が著しく低下していた」(p.218)と言っていたり、「障害者は不幸をつくる」から「抹殺する」への変容には大きな飛躍があると指摘している点だ。また、医師は金銭支援の要求も自分の考えが現実的かを考える能力が著しく低下している(p.219)と分析している。
このように、彼のちぐはぐな思考回路が大麻乱用のせいなのか、元々そうなのか、という点がわからない。
ぼくにそのあたりの診断はできないが、判決では犯行動機は「到底是認できない」が、論理の飛躍はなく「実体験を踏まえた発想として了解可能」とされたようだ。([第4章 判決]p.256参照)

[第4章 判決]に入ると、彼は「法律が入ったら会話が通じなくなってしまった」と言っている。これについても、何が言いたいのかわかりにくい。

それでもなるべく汲み取って考えてみよう。
すると、彼は「法律や権利など概念的な建前を前面にしても、自分の言いたいことはもっと本質的なもの、嘘偽りのないことなので話が通じなくなる」と言いたいのではないかという気もする。
しかし、そういったことに関しての理路整然とした説明は、彼から為されることはない。
しかも彼自身にそういった自覚はないようで、その反面、ちゃちな自尊心だけは持ち続けている。

そもそも、なぜ彼は障害者のみを「不幸を生み出す」とし「障害者に関わる金を他に回した方がいい」と考えたのか。
計画を実行したのが自分が勤めていた職場だったことも含めて、彼の視野の狭さや思い込みの強さが見てとれる。

自尊心、いや虚栄心はあるが、それに伴う社会貢献はできていない。
そんな自分を認めたくないけれど、視野を広げたり新たな場面で努力したりはできない。
だから歪んだ自己承認欲求を満たすためのターゲットとして、知った場所の知った人しか選ぶことができなかったのではないか。

また、彼は「(被害者の)母の話など、心に響かなかったのか」という記者の問いに「精神が病んでると思いました」と答えている(p.252)。
「遺族に関しては、文句を言っている方がヒステリックだと思いました」とも言っている(p.276)。

ここでもやはり、共感能力の著しい欠如がある。
「心に響く」かどうかはさておき、こんな答えを即答できるのはやはり何かが欠けている気がする。

一方で、「やまゆり園の園長や同僚らは公判で証言する機会がなく、動機の基礎と認定された園での経験や介護の実態について、事実関係の掘り下げはなかった」(p.255)と書かれており、両親との関係性も含めて、公判はなにかタブーを意識しておこなわれていた印象を受けた。

立岩真也も述べているように、事件の根拠にある「生産性優位の価値」が社会に広く深く根づいていることや、それとは別の「生きることの価値」があるという視点の掘り下げが、公判ではなされていない。(p.265〜)

また、柳田邦男は「『いのちとは』や『生きるとは』と言った根本的な問いへの考察と議論が欠落している」と述べている。(p.268)

これらのように、被害者やその弁護人、識者らが「裁判では動機や社会へのメッセージが不足している」と指摘している。

しかし実のとこよ、裁判官だけでなく、ぼくらは「生きる」ということの答えをもっていないのではないか。
重い障害がある人が生きていく意味とか、優生思想を打ち壊すべき理念は、生産性ばかり追い求めきた人たちにはわからないのではないか。
そんな問いを、この国はずっと置き去りにしてきたのではないか。

人々は日々の仕事や家事、さまざまな消費に追い立てられ、思考を深めて研いでいく暇なんてないのかもしれない。

ではここで、たとえばぼくが「障害者にも生きる権利はある」と主張したときに想定される反論を考えてみたい。
「じゃあ、障害者だけになったら社会は成り立つのか」という意見が出そうだ。

それに対しては、「そんな社会はあり得ない。健常者だけの社会があり得ないように」と答えたい。
なぜなら「健常者」だけになったとしても、そこからまた少しでも外れたもの、自分たちの暗黙のルールで会話ができないもの、異質なものは次第に「障害者」という枠組みに括られていってしまうからだ。

また、「弱肉強食」を自然界の原理として唱え、それゆえ障害などハンディを負う人は淘汰されていくことが自然だと考える人もいる。
しかし自然界は本当に「弱肉強食」なのだろうか?
もしそうなのだとすれば、「弱い」生き物は消えてなくなるのではないか?
しかし実際は、力の強い生物だけが生き残っているわけではない。さまざまなタイプの生物がそれぞれのテリトリーで生きている。
これはおそらく、同じ種内に視点を移したとしても、言えることだろう。つまり、同じ種内だけに絞って見てみても、必ずしも「強い」個体だけが生き延びているわけではないのだ。

弱いものを見捨てる種では、生まれた時から生存力が備わっている個体しか残らないことになるが、この自然界では弱いものを守り育てている種も多い。
「それは育てた後に強い個体になっているだろう」という反論もあるだろうが、そもそもそこに「育てる」「庇護する」という感覚があるかないかが、種としての生存力のキーポイントになることを、忘れていはいないか。

さて、ヒトという動物に話を戻したとき、もし「健常者=健全な知能と肉体を持った人」だけの社会を目指すとしたら、例えば彼のように議論が噛み合わない人間は「いらない」となるかもしれないよね、と思う。
見た目が悪い人は遺伝子を残さないようにすべきだ、とか、年収1000万円以下しか稼げないような個体は遺伝子を残すべきではない、とか言えなくもない。
というか、言語化しないだけでそう考えてパートナーを選ぶ人だっているだろう。

こんな風に、排除する枠組みはどんな要素に対しても設定可能である。
知能、身体、見た目、金を得る能力など、差異が生じる要素は無限にあるため、いくらでも切り捨てるための閾値は設定できる。
つまり、なにかをふるいにかけることを始めてしまえば、その網目はいくらでも広げることができてしまうということだ。

一方で、どんな人でも生きていける包容力のある社会であれば、安心して生きることができる。安心できれば人々は積極的に動くことができ、それにより社会がより良く発展していくと考えられる。

それに加えて、遺伝子や形態の幅狭いことは、種としてみたときに、環境の変化に弱いということでもある。
それまで不要に思えた特性が環境変化に伴い唯一の生き残り戦術なることだってあるはず。
つまり多様性こそ、社会の生き残る道だ。

p.279〜280において、彼は事件を起こしたことで日本が「まるっきし違う国になる」と言い、「例えば」と聞かれると「望みとしては大麻が解禁されてほしい」と言う。ここでも会話がずれている。

記者が「大麻を吸うきっかけは」と聞くと、「脱法ハーブ」と答え、次いで「生きがいがない人にも大麻があれば、(障害児の)家族も生きがいが生まれる」と言う。

そんな程度の想像力で、よくそんなことが言えたものだ。いや、この程度の想像力しかないから、ああやって大量殺人ができたのだろう。

家族の幸せが、子どもと日々触れ合い育ちをそばで見守る過程にある「生きがい」が、わからないのだ。どれだけしんどくても、いやしんどいからこそ、あるとき突然「わかった!」と相手の心のなかを理解できたときに訪れるよろこびを、想像することができないのだ。
自分がそれを知らないから、「そんなものは嘘だ」と思ってしまうのだ。

さらに彼は「僕も真剣に重度障害者とやりとりしているけど、普通に社会にいたら重度障害者とやり取りできないですよね」(p.286)とも言っている。
彼はたかだか2,3年で「真剣にやりとりした」らしい。その結果、「人ではない」と結論づけたらしい。

普通に社会にいて「重度障害者」とやり取りができないのたとしたら、それは社会の枠組みが固くなり、いろんな人と触れ合う機会が減ってしまったからではないか。
狭い世界の内側にいる人としか接しないから、本当はたくさんのタイプの人がいるのにそれを知らず、唐突に出会うと戸惑い、しかし戸惑ったり何もできない自己を否定することはできないので、相手を否定する。
そんな心理メカニズムが働いてしまうことが多いように感じる。

申し訳ないが、そこにあるのは想像力と共感能力の欠如で、それはつまるところ彼と同じ状態だ。

ページをすすめて[巻末資料]のやりとりを読む。
すると、なんだか虚しくなってきた。

特にp.338はひどい。
「考えは正しいが行いは正しいかどうかはわからない」といいながら、その行いで大量殺人を犯している。
自分の考えを正しいと思い、それを達成するための残虐な行動をしておいて、その行動が正しいかどうか「わからない」と言う。そんななかで、なぜ自分の行動を正当化できるのか?

シンプルに、あなたのやったことは間違っているんだよ。
本当はあなたも気づいているんでしょ?
それを認めたら自分を否定することになるから、認めたくないだけで。

そしてそんな彼に同調する人間もまた、無知で大して調べもせず自分の拙い思考に囚われているだけだと感じる。
だって、こんなやりとりをしている人間のやったことを賞賛できるか?

以上、拙い言葉を散らしながら、考えてみた。
この本のおかげでぼくが今まで考えたかったこと、頭のなかにあったけど掘り起こせなかったことがたくさん採集できたと思う。

本当はずっと前からしっかり向き合って考えなければならなかったはずなのに、できなかった。
けどこうやって言語化してきたことで、少しだけぼくも向き合えたということだろう。

この事件や裁判に関するニュースを見ていたころ、特にネット上で彼の薄っぺらくて中身が伴っていない言葉に共鳴する人がいたことに落胆した。
彼の薄さになぜ気付けないのか、と。

しかし人は言葉の表層的な部分に流されるのだ。ぼくにも覚えがある。
言葉に込められた(もしくは込められていない)内奥には気づきにくいのだ。

安易な言葉を多数の人の目にうつすことができるようになったことで、人は言葉に安直に反応するようになってしまったのではないか。

こんなぼくの言葉も、表層的で上滑りしているのかもしれない。

言葉の中身、それを発したときの想いを慮ることは、難しい。
けどそれをしないと、ぼくらは上滑りする言葉のなかで、いがみ合うことしかできない。

言葉に流されるな。
なんていう言葉を置いたところで、まったく説得力はないのだけれど。
けどきっと、流されずに立ち止まって考えてくれる人はいる。

ただし。
そうできない人がいてもいいのだ、とも思う。言葉に流される人がいたって悪いわけではない。
そうなってしまうのも、きっと彼らの愛すべき特性だから。
そうやってそれぞれの特性を笑いあって許せる社会になるといい。
それが、ぼくが本当に言いたいことなんだと気づいた。

社会全体の雰囲気が利益や効率、成功ばかりをもてはやすようなものではなくて、いろんなものを包み込んで許容するようなものだったとしたら。
そのなかで彼が育ってきたとしたら。
きっと、こんな事件を起こさずにすんだのだと思いたい。

そして実はすでに、世界は多くのものを包み込む方向に、多様性を尊重する方向に進み出しているのだと思いたい。


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