架空と現実と物語[読書日記]

侍女の物語 マーガレット・アトウッド 著 斎藤英治 訳 (ハヤカワepi文庫)


 出生率低下の危惧から性を統制して、「産む機械」としての女性を設けるようになった国。そこで「産む機会」として扱われている、1人の女性の視点から語られる物語。

 しかし、はじめはどんな世界の話なのかわかりにくい。状況の説明は徐々になされていく。少しずつ主人公が今とらわれている世界や過去の出来事が語られていく。
 だから気になって読み進めていき、気づいたらその世界に入り込んでいる。

 風景が静かに鮮やかに描かれているすぐそばで、思考や感情が深く鋭く描かれている。ところどころ、過去や夢の情景も挟まれる。
 そうしてぼくは、読みながら主人公が語る世界に存在できる。静かで残酷な世界に。
 そこにある世界に入れることが、読書の醍醐味だと思う。

 そんな架空の描かれた世界に浸っているとき、ふと思った。こういう世界は今現在の地球上にもあるのではないか、と。
 ただ、もしかしたらその地域では生まれた時からそれが当たり前とされているから、当事者はこの物語の主人公のように思い悩んだりしないのかもしれない。
 この物語の主人公の苦悩は、過去の自由と現在の不自由のあいだにあるのだから。
 「あらゆるものがそうであるように、自由もまた相対的なものだ」(p.422)とあるように、希望や信念の輪郭は明確なものではなく、ぼんやりと絡み合って存在しているのだ。苦悩も、愛も。

 だからぼくらは、物事を時間軸や空間軸をもって捉えようとしなければならない。
 今いる自分の場所が、果たしてどのような経緯でこうなっていて、どうなっていくのか。もっと広い世界では、どのようなことが起こって、どうなっていこうとしているのか。
 それを知らない限り、自分の今いる場所の正しい座標が見えてこないのだと思う。
 けれど一方で、知らない方が幸せなのかも、とも思ってしまう。
 今目の前にあることにだけを見て取り組んでいくことも、余計なことを知らなければ幸せなのかもしれない。
 ぼくにはどちらがいいのか、明確な結論は出せない。

 ただ言えることがあるとすれば、物語がないと人は生きていけない、ということだ。

 「これはわたしが作り出した物語ではない。
これはわたしが作り出した物語でもある。わたしが頭のなかで話を進めているあいだは」(p.80)と書かれているように、何かの出来事について人が語るとき、それはその人が作り出した世界ではないかもしれないが、その人が語っている時点で作り出されたものでもある。
 なぜなら、「物事をあるがままに話すことはできない。事実は決して正確には言えないものだからだ。あまりにも多くの断片や局面や例外やニュアンスがあって、必ず何かを省略しなければならない」(p.248)からだ。
 しかし、それでもやはり、物語は必要だ。それが神話や聖書であろうが、映画や漫画であろうが、世間話であろうが。何かしらの物語がない世界で人は生きていけない。より正確に言えば、人は物語を生み出さずにはいられない。

 「何であれあなたに語りかければ、わたしは少なくともあなたを信じることになる。あなたがそこにいることを信じることになる。あなたを存在させることになる」(p.486)
 だから人は、物語を紡いでいくのだと思う。


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