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写真を現像する意味を考えさせられた話

どうも、山野コアラです。

皆さん、写真を撮った後、写真って現像していますか?

わたしはしていません。
データ保管で満足しています。

なぜかというと、
・印刷するのが面倒
・印刷後の整理が面倒
・場所がかさばる
・現像しなくても、デジタルフォトフレーム(我が家ではEcho show)がランダムに見せてくれる

そんな理由です。

ですが、ある映画をみて、写真を現像することについて、はっとさせられました。
そのことを綴ります。

現像することに腑が落ちなかった

先輩「山野さんは、子どもの写真たくさん撮ってるけど、その写真って現像してる?」

山野「いえ、してませんよ〜。完全にデータ管理ですね。デジタルフォトフレームで勝手に表示してくれますし、不便してないですね。」

先輩「そうなんだ。けど、現像しないと見返さないし、ステキな写真ばかりなのに、なんとなくもったなく感じちゃう。」
先輩と山野のランチ中の会話

という会話を少し前にしていました。

「確かにきちんと見返せてるか?と言われれば違うな。」と思いました。

けど、データがあれば、いつでも見られるし、「まぁ今のまま管理していこう」と思っていました。

紙で残すということ

わたしの中で現像した写真は、思い出を物体でしかありませんでした。

これ以上以下でもありません。

そんなときに現像しておくことの大切さがじわっとしみる映画に出会いました。

映画:浅田家!

「浅田家!」という映画です。
本家のサイトはもうなくなってしまったようで、映画.comから引用します。

様々なシチュエーションでコスプレして撮影するユニークな家族写真で注目を集めた写真家・浅田政志の実話をもとに、二宮和也と妻夫木聡の共演、「湯を沸かすほどの熱い愛」の中野量太監督のメガホンで描いた人間ドラマ。
https://eiga.com/amp/movie/90845/

初めは、「写真家さんの話なんだ、ふーん、何か写真に生かせるものがあるかしら。」と思って見始めました。
※Amazon prime Videoでみました!

この映画の中で、3.11の話がでてきます。

その中で、震災でなにもかも流されてしまった人たちがでてきます。

また、主人公の写真家は、流されてしまった現像された写真を、水で洗って持ち主に返すボランティアを始めます。

そしてある場面で、持ち主に返される写真の中で、その写真を遺影として使う場面がでてきました。
何もかも流されてしまったので、遺影にする写真が手持ちにないのです。

ハッとさせられた

単純に「思い出」としか見ていなかった現像の写真が、あるとき「遺影」になる。

ハッとさせられました。

写真を現像するということは、人を紙に載せること。

わたしは、思い出づくりのために写真を撮っていたけれど、写真の用途っていろいろあるんだ。

「浅田家!」でいえば、わたしのように、データで写真を残していたとしても、印刷する技術が避難所になければ、すぐには遺影は作れません。

「LINEもなかった、2011年の話だからこの先で震災が起こった時は、なにかしらで印刷できるんじゃ?」と思いましたが、
災害時には、印刷することよりも、生きていくための食料や生活物品が優先されるはずなので、この考えはすぐになくなりました。

モノで残すということ

モノが少ないことが美学とされる風潮も最近一部あり、わたしも「モノが少ない方が生きやすいし、暮らしやすい」と考えています。

しかし、災害時には自分にとっての不要が必要になることがあるということを理解しました。

ですので、まずは災害バッグに家族写真やとっておきの写真を入れておこうかと思いました。

災害にあったとき、その写真をみて、下がった気持ちが少しでもラクになればと。
家族とバラバラになっても、顔を思い出せるよう、心のよりどころとして、忍ばせておこうと思います。

おわりに

皆さんは、現像した写真はどう活用していますでしょうか?

電子で残す、紙で残す、残し方の媒体は様々です。

エンジニアなので、つい電子よりになってしまうのですが、今回の「浅田家!」での気付きはいいきっかけになりました。

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