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【3.11】わたしはJKで浦安にいた

震災から10年が経った

東日本大震災から今年で10年が経つそうだ。
2011年3月11日、あの頃の自分はJKだった。
当時のことをリアルに覚えているうちに、記録に残しておこうと思う。
長文になるかもしれませんが、お付き合いくだせえ。

普通の時間を送っていた

高校が浦安にあったので、震災があった日も浦安にいた。
あの頃もTwitterをやってたらしく、震災が起こるとも知らずに震災直前に「成田山行きたい」なんて呑気なことを呟いていた。

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震災が起きた瞬間は意味わかんないけどテンションがぶちあがった

本当に今となっては不謹慎なことだけど、震災が起きた瞬間、校内中のテンションがぶちあがったことをすごくリアルに覚えている。
私は、部長会議かなんかで放課後に1階の教室にいた。
突然、大きく揺れ始めた。
大きく揺れ動く教室ですぐに外に出なきゃ!と思った。
数日前に発生したニュージーランドでの地震で建物が崩壊して1階にいた日本人留学生が死亡したニュースを見たばかりだったからだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%99%E3%83%AA%E3%83%BC%E5%9C%B0%E9%9C%87_(2011%E5%B9%B4)
外に出ようとした瞬間「馬鹿か!」と現在親友の副部長に机の下に引きずりこまれたのを覚えている。
ああ、ここで死んだらよくわかんないけどヤバい…
と揺れが収まるまでの永遠とも思える時間を待った。

揺れが止まった後の校内の人間のテンションは完全に「ハイ」だった。
学校内にいなさい!と怒鳴る教師。
液状化でグランドが使えなくなり、練習が休みになって喜ぶ野球部。
液状化と地割れを目の前でみて「あれはヤバかった!」と帰り道から引き返してきた同級生。
私も大金はたいて人工芝に変えたばかりの学校のグランドが滅茶苦茶になってるのをみて、なぜか心の底から友達と爆笑したのを覚えてる。
人間はあり得ない状況になると、自分は何とか生きているという絶望の中から希望を察知して、一旦頭がおかしくなるようにできているのかもしれない。

これは…完全被災者なのでは…?

自分のクラスに戻れと教師に怒鳴られ、教室にもどった。
窓から火災の煙が見えて、TV局のヘリコプターが何台も空にいるのが見えた。
あーあ、こりゃあ、液状化で陸の孤島になってしまったな。と思っていた。
当時はガラケーだったので、情報も全然見る手段がなかった。
そもそもバッテリーも今と違ってすぐになくなってしまうので、大事な時のために携帯を触らないでいた。
非常用袋が配られ、地元で歩いて帰れる人は帰った。
私は学校から家まで45kmくらいあるので帰れない。

どんどん夜に近づいて、当たり前に夜になっていく。
・トイレは流れないので大をする時はプールの水で流せるトイレに行くこと
・乾パンは一気に食べないこと(いわれる前に一気に食べてしまっていた)
・水は大事に飲むこと
・親が迎えに来ない限り、外には出ないこと
・体育館に地域の人が避難しにきてるので体育館は立ち入り禁止
余震の中で色んなことが決まっていく。
親が迎えにきた友達がどんどん色んなものをくれる。お菓子、漫画、カードゲーム…。
また明日普通に学校で会えるよね!というテンションで友達とバイバイした。

夜中に親から連絡がきた「迎えにいこうか?」
断った。大事な友達を残して私だけ帰るわけにはいかない。
「我等友情永遠不滅。ずっ友!!!」という謎のJKプライドが邪魔をし、教室でアルミホイルみたいな何かにくるまって余震をゆりかごに寝ようとしたけど寝なかった。

自分の考えが大間違いだったことを知る

次の日の朝まで避難していた生徒はかなり少なかった。
ほとんどの生徒は徒歩で帰れるか、親が迎えに来た。
学校でカレーが出た。カレーを食べていたら父が迎えに来た。
道路も落ち着いているので、私の友達も一緒に送るとのことで大いに安心したことを覚えている。父ナイス。
液状化でぐっちゃぐちゃの浦安の風景を横目に車が走る。
父の車でテレビをみる。東北がとんでもないことになっていた。

FireShot Capture 112 - 夢の国のやまのさんはTwitterを使っています 「家に帰ってはじめて地震関係のNEWS見た。もっともっと怖くなった」 _ Twitter_ - twitter.com

私の10年

あれから解決したことも、解決してないこともある。
大きな政治的なことも、細かい個人単位のことも。
浦安に住んでいる親友はまだ家が傾いている。
でも、家が傾いていることは気にしている様子はない。優先度が低いのかもしれない。
私自身、3.11を境になにか解決してないことがあるかといわれたら特にない。地震で酔うようになったくらいかもしれない。別にでもそれによって、何か不便があるわけではない。
だけど、「私の」10年はそうであるだけで、そうじゃない「私」が日本にたくさんいるんだなと思う。
大好きな『ねほりんぱほりん』に出ていた、震災で家族が行方不明になった人を思い出す。


自分の出来る距離感で、自分の芯をもって、この10年を思い返す。

みなさんは10年前の2011.03.11どこで、誰と、何をしていましたか?

#それぞれの10年

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