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今それをやる意味

部下に何かを命じたときに、その部下から「今それをやる意味は何ですか?」と問い返されたら、あなたならどうしますか?

何年か前にネット上で、「『いいからやれ!』は通用しない」との記事を読みました。

その記事が何であったか、どこにあるのかはもう分からないのですが、僕が自分の言葉でまとめると、こんな感じの記事でした:

最近の若い社員に上司が「これをやれ」と命ずると、「それをやる意味は何ですか?」と返ってくる。「なるほど」と思って意味を説明してやる上司もいるが、うんざりする上司もいる。

理由を示さずに命令されると自分の人格が否定されたように感じるらしいのだが、しかし、我々の頃は意味や理由なんて説明されずに「いいからやれ!」のひとことで済まされたものだ。

僕らの世代は、これは大変よく分かります。僕自身もついつい「あー、ほんとに、今の若い奴は面倒くせー!」とうんざりする上司の側に肩入れしてしまったのですが、しかし、よく考えるとそれもどうだろうという気がします。

ただ、この部下のものの言い方が巧くないのも確かですね。「それをやる意味は何ですか?」という言い方は少し上司を舐めた感じもしないではないですから。

いや、言っている本人はそんなこと全く思っていないのでしょう。でも、こういう言い方はできれば避けたほうが良いです。特にその上司が度量の狭い人、短絡的な人物であるような場合はなおさら。

相手をよく見て、マイナスの反応を呼び起こすようなアプローチは避けましょう。「それをやる意味は何ですか?」ではなく、もう少し柔らかい返し方を考えてみてください。

でも、とは言え、最大の問題はそこではありません。そう、部下が言い方を和らげれば解決するような問題ではないのです。

いざ何かを実行しようというタイミングになって、それをやる意味が上司と部下の間でまだ共有されていないとしたら、それはコミュニケーションの失敗なのです。

上司が「これをやれ」と言った時には、部下の反応は次の3つのうちのどれかであるべきだと僕は思います。

  1. はい、自分もそうしようと思っていました。

  2. なるほど、確かにそうですね。そうします。

  3. おっしゃる意味は解りますが、自分は今それをすることには反対です。

そうでないとしたら、それまでの何日間か、その上司と部下はまともにコミュニケーションを取れておらず、仕事になっていなかったということの証なのではないかと、僕は思うのです。

その場合、上司と部下のどちらが悪いのかはケース・バイ・ケースで、一概にどうとは言えません。ただ、どちらが(あるいは両方ともが)悪いにせよ、両者の間にまともなコミュニケーションが成立していないということだけは確かなような気がします。

冷静に考えたらそうだと思いません?

部下が理由を訝りそうなことを命ずるのであれば、僕ならいきなり「これをやれ」とは言いません。背景や自分の考えを説明して、「だからこれをやるべきだと俺は思うが、どう思う?」と水を向けると思います。

いや、僕は自分が立派な上司であると言いたいのではありません。ただ、コミュニケーションってそういう段取りを踏むものではないかなと思うのです。

今考えてみたら、僕らが若かった頃「いいからやれ!」で済んでいたのは、それでもある程度コミュニケーションが成立していたからかもしれません。たとえそれが昔なりのめちゃくちゃ乱暴なコミュニケーションであったとしても。

それは格好良く言うと、上司に対する信頼感であったのかもしれません。そう、何を措いてもまずそれがあったような気がします。どんなに嫌な上司であっても、仕事の上での判断については一定の信頼を置いていたと思うのです。

あるいは、上司に面と向かって口答えすることへの遠慮もあったのかもしれません。そんな時代でした。

逆に上司からすれば、部下本人に考えさせるためであったり、時にはわざと無理筋のことを要求して反応を見極めていたり、ま、今思えば、そういう諸々の背景の下で、曲がりなりにもそれなりのキャッチボールが成立していたような気もするのです。

昔の上司や仕事のやり方が野蛮であったのか、それとも今の部下たちのものの考え方がおかしいのかなどと考えても仕方がなくて、ひょっとしたら昔のほうが意思の疎通が図れていたのかもしれない、信頼関係が築けていたのかもしれない、と考えてみたほうが今後のためには良いのではないかということです。

上司の権威がなくなったとか、部下の態度や考え方、ものの言い方がひどくなった、みたいな単純なことで片付けたくないなあと思うのです。

ま、しかし、そうは言うものの、こちらとしてはてっきりとっくの昔に理解しているものだと思っていた部下に「それをやる意味は何ですか?」と問われたら、確かにがっくりは来るでしょうね(笑) その言い方にカチンと来るかもしれません。

しかし、そこでカチンと来て、「いいから俺の言う通りやれよ!」などと叫んでしまったら、僕もアホな上司のひとりに仲間入りですけどね(笑)。

僕らが新入社員の頃はちゃんとした説明がないのは当たり前でしたが、でも、それでも僕らは自分が否定されたとはあまり感じませんでしたね。

いや、それどころか、新人の時は上司に煙草を買いに行かされたりしてましたもんね。今そんなことやったら大問題ですが(笑)

それでも腹は立ちませんでした。そういう時代だったと言えばそれまでですが、まあ、自分は今のところ煙草を買いに行くぐらいしか役に立たない存在であるという思いもありましたしね。──これ、今の考え方からすれば自分を卑下しすぎなのかもしれませんが…。

あの時言えば良かったのでしょうかね? 「私に煙草を買いに行かせる意味は何ですか?」と(笑)

話を元に戻しましょう。

僕が上司からろくに説明を受けなくても自己否定された感じを持たなかったのは、僕らの世代は親からもそんな教育をされていたからかもしれません。僕の父親はことあるごとに「親の言うことに口答えするな」みたいな台詞を乱発していました。

親に対してはそれなりに反発もあったのですが、会社に入って上司に同じようなことを言われても、肉親じゃないので遠慮があったのか、あるいは単に社内で干されるのが怖かったのか、それとも親に言われ続けて感覚が麻痺してしまっていたのかは分かりませんが、とにかく会社ではそれほど反発はしなかったように思います。

上司も皆が皆そんな人たちだったわけではありませんが、中には「つべこべ言うな」「いいからやれよ」みたいなことしか言わない上司もいて、そういう上司には確かに反感も覚えましたが、でも、そこでキレずに、言い方に気をつけながら何とか上司の考えていることを引き出そうとしましたし、それと自分の考えをすり合わせようとしたのも事実です。

そういう過程で、今の基準からすると随分歪な関係であったかもしれませんが、それでもコミュニケーションはあったような気もしますし、日々少しずつそれは深まっていったような気もします。そして、そういうことを通じて、上司に対する信頼も徐々に生まれていたのだと思います。

我々はついつい世代論の悪癖に嵌って、「最近の若いやつは」みたいな考え方に染まってしまいがちですが、世代はあまり関係ないのです。そう、自分と相手の考え方が違うのは当たり前のことなのです。

だから、普段から肌理の細かいコミュニケーションを取らないといけません。「それをやる意味は何ですか?」と問い返されたら、「そうか、俺はこれまでにちゃんと説明できていなかったか」と考えたほうが良いとは思いませんか?

そういう考え方がコミュニケーションを深め、相互の信頼関係を樹立するのだと、最近になって僕は思い始めました。

(この文章は 2014/8/23 に自分のブログに書いたものに手を入れたものです)


仕事の進め方についてはこんなことも書いています:

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