『九十歳。何がめでたい』という表記について考えた
先日、映画『九十歳。何がめでたい』を観ました。昨年 100歳を迎えた作家・佐藤愛子を昨年 90歳に達した草笛光子が好演しています。
とても良い映画でしたが、今回は映画の中身についてではなく、映画(かつ原作のエッセイ集)のタイトルについて思うところがあって書きました。
マル(。)は打たない
それまで僕は佐藤愛子の本を読んだこともなかったのですが、そのタイトルを見てさすがに佐藤愛子は昭和の大作家だなと思いました。
表題には句点(。)を打たないのです。
いやいや、「九十歳」のあとにマルがあるでしょ?と言われるかもしれませんが、それはそこで体言止めになって文が一旦終わっているからです。ちなみに、僕ならここは句点ではなく読点(、)を持ってくると思うのですが、そこは趣味、あるいは感性の違いですね。
ま、いずれにしても、タイトル末尾の「何がめでたい」の後にはマルは打たないのです。たとえそれが終止形で終わっていても、明らかに一文の終わりであっても、表題末尾には決して句点は打たないのです。
ひとつの文の形になっていても、タイトルには句点を打たないのが従来のルールと言うか、標準と言うか、僕の感じ方で言えばそれは何となくみんなで長年守ってきた、日本語のお約束だったんですよね。
例えば日本の近代文学で言えば、夏目漱石の『吾輩は猫である』にも菊池寛の『父帰る』にも、末尾にマルはありません。
翻訳文学においても、マーガレット・ミッチェルの『風と共に去りぬ』もそうだし、アーネスト・ヘミングウェイの『誰がために鐘は鳴る』にも句点はありません。
年代的にもうちょっと現代に近いところの作品で言っても、池田満寿夫の『エーゲ海に捧ぐ』(1977年)にも江國香織の『きらきらひかる』(1995年)にもマルはついていません。
テレビや映画や音楽も同じです。『私は貝になりたい』とか、『男はつらいよ』とか、『もう頬づえはつかない』とか、『Romanticが止まらない』とか、『白いくつ下は似合わない』とか、『そして僕は途方に暮れる』とか…。枚挙に暇がありません。
そもそもタイトルには文ではなく体言(名詞形)のものが多いのも確かですが、文の形を取ったタイトルであっても句点で終わるようなものは皆目見当たらなかったのです。
中には副詞句で終わるタイトルも少なくありませんが、だからと言って読点を打ったりはしなかったのも、句点の場合と同じです。つまり、『恩讐の彼方に』も『魅せられて』も、『恩讐の彼方に、』や『魅せられて、』になりはしなかったのです。
それが、つんくが1997年に「モーニング娘。」を作って以来、タイトルにマルを打つのが一気に流行りだしました。
でも、これややこしいんですよね。
などと書かれていると、マルがあるので「モーニング娘」で文章が終わっている(体言止めの形)かと思ってしまうのですが、その直後の「はこれ」の意味が分からないので、そこで初めて句点では文章は切れていなくて、句点を含む部分が文の主語になっており、「は」は格助詞だと分かるのです。
曲名で言うと、句点で終わるタイトルは実はモーニング娘。が出てくる前からパラパラ出てきていました。『もしも明日が…。』(1983年、わらべ)とか、『君に、胸キュン。』(1983年、イエロー・マジック・オーケストラ)とか、『どんなときも。』(1991年、槇原敬之)など。
でも、単一の名詞のグループ名にマルを付けたつんくの手法はまさに型破りで、これ以降、もう何にでもマルを付けて良いんだみたいな風潮が強まったように思います。
それ以降、それこそ雨後の筍のように句点終わりのタイトルが続出してきました。いちいち例は挙げません。今ではごくフツーのことですから。
(と言いながら、ひとつだけ例を挙げておくと、Netflix の『余命一年の僕が、余命半年の君と出会った話。』。これは敬愛する三木孝浩監督の作品で、瑞々しい、とても良いドラマでした)
中には読点で終わるタイトルもありました。
『好きだ、』(2005年、石川寛監督)は宮﨑あおい、西島秀俊、永作博美、瑛太らが出演した、僕が大好きな映画なのですが、この表記は大変気持ち悪いです。
その理由は、ひとつには「だ」が断定の意味を表す助動詞だからであり、もうひとつは「だ」が終止形だからです。断定して終止するはずが読点で繋がって行くとは理解に苦しむ表現です。「好きだ…。」であれば、断定しながらも余韻を残した表現だと理解できるのですが。
あと、これは余談になりますが、「記号は重ねない」というルールと言うか、これも長らく守られてきたお約束みたいなものもあって、
ではなくて、
と書くのが正しいとされてきました。句点と閉じ鍵括弧が連結するのを避けたわけです。
閑話休題。
とにかく人は、新しい商品や企画を売るために、新しい刺激を求めて、常に新しい表記法をひねり出し続けているのです。
ま、しかし、句点や読点で終わるタイトル表記がどれだけ広がって行ったとしても、もちろん昭和の大作家・佐藤愛子はそんな流行には乗らないのです。
この本は2016年に出版されたものですが、あくまで『九十歳。何がめでたい』なのです。
そこに今更ながら感銘を受けました。
疑問符(?)は付けない
それから、もうひとつ、僕がこのタイトルをつけたとしたら、(僕もやはり最後にマルは打ちませんが、しかし)「?」は付けてしまうだろうと思います。つまり、「九十歳。何がめでたい?」と。ひょっとしたら、「九十歳? 何がめでたい?」(あるいは「何がめでたい!?」)にするかもしれません。
こういう書き方はもう現代の日本語表記ではごくフツーになって来ていると思います。
クエスチョン・マークを付けておくと、それが疑問文であることがひと目で分かるという利点がありますし、何よりも僕らは英語の表記法に慣れてしまって(「毒されてしまって」と言うべきか)ついつい「?」を打ってしまうのです。
『誰がために鐘は鳴る』も、もし今年翻訳されたのであれば、『誰のために鐘は鳴るのか?』とクエスチョン・マークで終わるタイトルになっていたのではないでしょうか?
しかし、佐藤愛子はそんな書き方はしません。「何が」という疑問詞があるので、クエスチョン・マークなど添えなくてもこれが疑問文(この場合は修辞疑問文ですが)であることは明らかだからです。
『誰がために鐘は鳴る』も同じで、「誰がために」があるのでこれが疑問文であることは明らかで、従って「?」などを添える必要はどこにもないのです。
だから昭和の大作家は、そんな不必要な記号を用いて日英混合みたいな見苦しい表現はしないのです。
その2つのことに気づいて、なんか清々しい気がしました。
別に佐藤愛子の表記が正しくて、皆それを倣うべきであるなどと言う気はありません。ただ、世の中の流れに安易に乗らず、自分が身につけてきた言語の規範性をきっちり維持している姿勢がとても清々しいと僕は感じたのです。
強烈に、痛切に感じたのです。そして、いいなあ、と思いました。
確かに今の時代のスタンダードな表現の中に放り込むと、少し古い感じがするかもしれません。けれど、これでちゃんと意味は通じるんだし、とても簡潔で美しい日本語だとは思いませんか。
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僕は観た映画のほぼ全てについて自分のブログに映画評を書いていますが、ここ note には、何かの企画募集に応募する場合などを除いては、それを転載することはしていません。ただ、映画本編ではなく、今回のような周辺のことに触れた記事については、少しここにも載せて行こうかなと思っています。
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