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野球小説の白眉――W.P.キンセラ

以前 note に『セックス小説の本流(いや、奔流?)』という文章を上げた。かつて自分の個人HP に書き、それを書き直して他のサイトにも投稿した文章だ:

それで、それ以外にも、以前同じような読書に関するまとめエッセイを書いていたのを思い出した。それも最初は自分の HP に書いた4編の文章をひとつにまとめたものだった。

それは野球小説について書いたもので、主に W.P.キンセラを取り上げた記事だった。

今回 note に #海外文学のススメ というタグがあるのを発見して、ならばこれも少し手直しした上で、ここにアップしてみることにした。

以下がその文章である:

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『ライ麦畑でつかまえて』をはじめとする瑞々しい青春小説を書き残したサリンジャーに感化された作家は多い。また、サリンジャーを扱った書物も多い。そして、サリンジャー自身が登場する小説がある。

W.P.キンセラの『シューレス・ジョー』 ( Shoeless Joe ) がそれである。

知らない人でも、映画『フィールド・オブ・ドリームズ』の原作だと言えば、「ああ、それか」と思ってもらえるかもしれない。

実在した大リーガーであり、八百長事件に関与したとして永久追放になった悲劇のヒーロー、シューレス・ジョーの物語である。

そして、この小説はサリンジャーの物語でもある。

映画の中では残念ながら(何かクリアできない問題があったからなのだろう)、別名の黒人作家に変えられていたが、原作ではユダヤ人作家ジェローム・デイヴィッド・サリンジャーその人が他の作中人物に混じって登場するのだ。

これは筆を折って隠遁生活を送っている JDS が、子供の頃から親しんできた野球の魅力を忘れられずに、再び球場に姿を現わすまでの物語である。

言わば野球への思いが生きる活力となって、この世捨て人のようになってしまったかつての花形作家の足を球場にまで運ばせたのである。

そういう意味で、この小説はサリンジャーが主人公であるとも言える。

いや、別の見方をすれば、主人公なんて誰もいない、野球そのものがこの物語の主人公なのだ――とも言える。

W.P.キンセラが野球を舞台に書いた小説を、僕が「野球小説」と呼ぶのはそういう意味合い(=野球そのものが主人公)である。


日本のプロ野球と米国のプロ野球はどこか違う。どうしようもなく違う。根本的に、決定的に違う部分がある。そのことは、アメリカ合衆国に行ってナイトゲームを1試合見れば簡単に判る。

僕自身も初めて MLB をこの目で観たとき、ドジャースタジアムに一歩足を踏み入れた瞬間にそう感じた。

そこには魔法がある。マジックである。


ちょうど日本人にとって相撲が神聖であるように(あるいは、かつて神聖であったように)、アメリカ人にとって野球は魔法なのだ。僕はそんなふうに感じている。

どちらもともに(日本と米国の)国技であるが、一般の人間は「神聖」には容易に近づくことも触れることもできない(未だに女性は土俵に上がることさえ許されない)。

一方、「魔法」はどうだ? 魔法は三歩下がって敬うものでも、危険を冒して近寄るものでもない。それは知らないうちにかかってしまうものなのである。

神聖は人を近づけないもの。魔法は人を魅するもの。
人は神聖にひれ伏すが、魔法には陶酔する。

W.P.キンセラはそんな感じを体現している。彼は、どの作品の中でも、その野球の魔法(マジック)をまるで世界一般に拡散させるみたいにして、ストーリーを織りなして行く。そして奇跡のような小説が編み出されるのである。

僕が言う「野球小説」は、単に野球が舞台になっていたり主人公が野球選手である小説のことではない。野球の真髄に触れ、そのすばらしさを描いた小説のことなのである。


大作家の書いたものなら、フィリップ・ロスの『素晴らしいアメリカ野球』が、ある意味でその一例だろう(ただし、決して正面から直接的に野球を称えてはいないが…)。

あるいは、文春文庫の『12人の指名打者』に収められた12編の短編小説などもその代表作と言えるのではないだろうか。

そして、このW.P.キンセラこそ野球小説の、野球文学の第一人者に他ならない。

『シューレス・ジョー』だけではない。『アイオワ野球連盟』『野球引込線』『魔法の時間』など、どれをとっても胸元にズバッと飛び込んでくる豪速球のような、あるいは大きく変化するスクリュー・ボールのような、ワクワクする野球小説を数多く書き残している。

彼は、野球が魔法であることを、誰よりもよく知っているのである。

さらにキンセラには『マイ・フィールド・オブ・ドリームス』という作品もある。僕は書店の棚にこの本を見つけた時、涙がちょちょぎれそうになった。何故ならこの本はキンセラがイチローについて書いた、いや、イチローに魅せられ、まさにイチローを称賛するために書いた本だったからである。

でも、さすがに野球に全く興味のない人には、残念ながらお薦めできない小説家なのかもしれない。

ならば、そういう人には、彼の小説の中で「野球もの」と並ぶ、もうひとつのシリーズである「カナダ・インディアン(今はネイティブ・カナディアンと言うべきだが)もの」を読んでもらいたい。

『ダンス・ミー・アウトサイド』などという、タイトルを見ただけで面白い短編集が出ている(さすがにこの英語は訳し切れなかったみたいで、そのままカタカナのタイトルになっている)。

それも嫌だと言われるのなら、まあ、日本の相撲小説でも読んでいてくださいな(笑)


さて、野球小説に戻ろう。

上記の『魔法の時間』 ( Magic Time ) を読んでいたら、グサッと来る台詞にぶつかった。本筋とは全く関係のないところなのだが、胸に突き刺さってどうにもこうにも抜けないので、ここで引用しておく。

「君も分らない男だな。ここは日本とは違う。メンツを失うなんて大したことじゃないだろう」

ここにもアメリカと日本の根本的な違いがあった。だから日本ではマジックは育たないのかもしれない。

でも、野球というスポーツの持つ美しさは、日米で全く同質のものだとは言わないが、それでもその美しさを愛するファンの目にはやはり同じものがあるように思えるときがある。

奥田英朗に『野球の国』という作品がある。小説ではなく随筆である。僕は、必ずしもこの本が素晴らしい野球文学だとは思わないが、その中に素敵なフレーズを見つけた。

嫌いなものが多いから、好きなものに出会えたときのよろこびは大きい。映画だって、音楽だって、書物だって、わたしには「生涯の友」といえるものがたくさんある。プロ野球も同様だ。江川のストレートに驚嘆し、遠藤のフォークに目を奪われ、原の放つホームランにため息をついてきた。わたしは美しいものと、それが輝く瞬間が好きだ。記録と権威に関心はない。

この輝く瞬間が作家の心を捉え、彼に野球小説を書かせるのだと思う。

残念ながら Amazon でさえ中古本しか見つからないような有様だが、もしも機会があったら、そしてもしもあなたが野球のファンであるなら、野球の魔法に魅せられたファンであるなら、是非とも読んでほしい作家である。

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