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令和の時代から昭和の星飛雄馬を振り返る

今回のお題は『巨人の星』──僕らの世代なら誰でも知ってる野球漫画/アニメである。と言っても『巨人の星』を分析しようなどと言うのではない。大昔、あの作品を観たときからずっと心に引っかかっていることを、どうしてもどこかに書きたかったのだ。

『巨人の星』概略

「アニメをやっていた頃にはまだ生まれてなかった」という人のために少し解説しておくと、『巨人の星』は 1966年から 1971年まで『少年マガジン』に連載され、1968年から 1971年までテレビアニメも放送された。

当時“スポ根”(=スポーツ根性もの)と言われたジャンルを代表する作品だ。

星飛雄馬は父である元・読売巨人軍の正三塁手・星一徹によって、小さい頃から両腕両肩に「大リーグボール養成ギプス」をつけられるなど、鬼のようなスパルタ教育によって、目にも留まらぬ豪速球と針の穴をも通すコントロールを身につけ、高校球界を代表する投手になる。

夏の甲子園では爪が割れたこともあって花形満にホームランを打たれ、そのことによりライバルの花形は阪神タイガースに、左門豊作は大洋ホエールズ(今の横浜ベイスターズ)への入団が決まるが、飛雄馬にはオファーはなかった。

それでも彼は何とかテスト入団で巨人軍に入ることができたのだが、球質が軽いことと変化球が投げられないことに限界を感じ、当時巨人に在籍していた球界屈指の大投手・金田正一に変化球の投げ方を教えてくれと言う。

(僕の記憶によるので、多少違ってたらゴメンナサイ)

ここでひとつの疑問は、当時の高校球児には直球しか投げられないピッチャーというのはどれくらいいたのだろう?ということ。僕はまだ小学生だったので分からない。

確かに漫画の世界では、「曲がったことが大嫌い」なので直球しか投げない藤村甲子園というような選手もいたが(笑)

まあ、なんであれ、

星飛雄馬はプロに入るまでずっと直球一本で勝負して、それでもかなりの成績を収めてきたわけである。その彼が大先輩・金田に教えを乞うたのである。

しかし、ここで、金田はすんなりとは教えてくれず、飛雄馬に世界で初めて変化球(カーブ)を投げた男の話をする。

つまり、そんなこと安易に他人ひとに教えてもらうのではなく、自分で新しい変化球を開発してみろ、という意味である。

そこから飛雄馬の研究と特訓が始まり、やがて父・一徹の「魔送球」の応用で「大リーグボール1号」を完成させる。

(僕の記憶によるので、多少違ってたらゴメンナサイ)

僕の引っかかり

──と、まあ、そんな話である。で、僕があの当時からずっと引っかかっているのはここなのである。

なんで金田正一は変化球の投げ方を教えてくれなかったのか?

目にも留まらぬ豪速球(当時はまだスピードガンというものがなかったので、「○○km/h の速球」という表現はなかった)と針の穴をも通すコントロールがあれば、いくら球質が軽くても、直球しかなくてもそうそう打たれはしない気もするのだが、そこに金田直伝のカーブ(特に当時「ドロップ」と言われた金田独特の大きく落ちるカーブ)が加わったら鬼に金棒ではなかったか?

それを金田がそんな気まぐれを言ったことによって、星飛雄馬は茨の道へと突き進むことになってしまった。

もしカネやんが素直にカーブの投げ方を教えてくれさえいれば、あるいは自分では教えなくても「コーチに聞け」とでも言ってくれたら、飛雄馬はもっと楽に活躍して、見事に昭和名球会入り(=通算 200勝以上が条件)もできたのではないか?

そうそう、ピッチング・コーチは一体何をしていたのか?

──てなことを考えると、僕は残念で残念でたまらないのである。子供心に金田が憎いと思ったくらいである。

一方で、今あらためて考えてみたら、本物の(漫画の中ではなく実在する)金田正一ってそんなこと言うキャラじゃないよね、という気がしないでもないのだが(笑)

もしもこれが今だったら

ま、それは置いといて、しかし、これが今だったらどうかと考えると、事態はまるで違ってきただろうなと思う。

金田にすげなくなされた飛雄馬は自宅に戻ってスマホで「カーブの投げ方」を検索するだろう。そうするといろんな文章や図解が見つかるはずである。ご丁寧に投げ方のコツまで教えてくれる動画が上がっていたりもするはずである。

そういうわけで飛雄馬は YouTube で「4種類の変化球を投げてみた」みたいな動画を見つけて自分なりの変化球をマスターしたかもしれない。

しかし、あの時代にはそういうことは全くできなかったのである。

唯一の検索グッズは親が子供の教育のために買った大百科事典全○巻ぐらいしかなかったが、そこには当然カーブの投げ方なんか載っていなかった。

図書館に行けばひょっとしたら何か見つかったかもしれないが、それは図書館に行ってみないと分からなかったし、そもそもそういうことに触れた出版物さえほとんどなかったはずで、多分行っても見つからなかっただろう。

だから、他人に訊くしかなかった。それで、球界で一番の勝ち星を挙げていた金田に教わろうとした飛雄馬の判断は決して間違っていないと思う。しかし、そのことが彼を苦難の人生へと追いやったのだ。

──それを思うと僕は残念で残念で仕方がないのである。そう、あの当時から今に至るまで。

昭和

しかし、星飛雄馬もまた星飛雄馬で、彼は大リーグボール1号が打たれると今度は2号、2号が打たれると次は3号を開発するのである。それはそれでよろしい。でも、一度打たれた魔球は2度と投げないというのは、何という潔さ、と言うか、バカ正直と言うか、変なこだわりなんだろう。

もしも、目にも留まらぬ豪速球と針の穴をも通すコントロールに大リーグボール1号、2号、3号を交えて投げたら、誰にも打てないのではないか? 金田の持つ日本記録 400勝をひょっとしたら上回れたのではないか?

でも、彼はそうしなかった。

テレビアニメの主題歌の歌詞にもあったように、「思い込んだら試練の道を行く」のが男の生き方だと思われていたのである。そんな時代だった。

今巷では昭和のいろいろなものを、単に年寄りが懐かしむのではなく、若い世代が再評価する動きがある。昭和に生きた我々にとってはそれは喜ばしいことだ。

でもね、確かに良いことや素敵なものもたくさんあった。でもね、そういう時代だったんだよ。

鍛えられ自らも鍛えると言えば聞こえは良いけれど、なんかそんなことでなんかとっても残念なことになってしまうこともある、そんな時代だったんだよ。

そのことをどう感じるのか、ちょっと若い世代に訊いてみたい気がする。僕自身はこのことが何十年も頭にひっかかっているのである。

ところで、星飛雄馬はプロ野球で何年間選手を続け、通算でどれだけの成績を収めたのだろう? 漫画の中には詳細に描かれてはいなかったと思うのだが、台詞やト書きの中に断片的な記述はあったんじゃないかなと思う。

多分そんなことを研究している人もいるんだろうな、そして、それは検索したら出てくるんだろうなと思う。

今はそういう良い時代になったと僕は思っている。

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ちょっと毛色は違いますが、野球に関してこんな文章も書いています:

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