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茶化す、という親密性について考える

三宅香帆さんの note 『茶化す、という親密性』を読んで深い共感を覚え、僕なりの思いについても書いてみたくなりました(彼女の感じ方とは微妙に違っているかもしれませんが)。

とは言え三宅さんにしてみたら、いくら共感したとは言え記事のコメント欄にだらだら書かれるのも迷惑でしょうから、こうやって自分のページに書いています。

茶化す、という芸風について考える

いきなりこんなことを書くと「ナニソレ?」と言われるかもしれませんが、明石家さんまさんの話芸って「茶化し芸」だと思うのです。そう、ツッコミ芸であるのは間違いありませんが、その中でも特に茶化し芸。

そして、それはある意味、上方漫才やよしもと新喜劇からの長い伝統を誇る話芸なのです。

関西生まれの僕らはそういう話芸を見ながら育ってきたので、ごく自然に自分でもわりとそういう芸風を身につけてしまうようなところがあります。

僕が自分自身のジョークの主なパタンを分析しても、やっぱり茶化し芸に分類されるのかな、と思います。

父の茶化し方を思い出す

僕の父もよく人を茶化す人でした。

僕の母方の祖母(父にとっては義母)は血気盛んな人で、よく興奮して息巻いたりすることがありました。

ある日、父の何気ない発言にカッとなって、怒りのあまり家を飛び出しそうになっていた祖母に、父は正面から諫めるのではなく、「おばあちゃん、そんな高田馬場(※)じゃあるまいし」などと笑って言っていました。

※  『忠臣蔵』のメンバーの一人である堀部安兵衛が、高田馬場で決闘になった仲間のもとに、おっとり刀で駆けつけて助太刀した逸話を踏まえています。

祖母はそれを聞いて「どうせ私はババァじゃ!」と激高した(馬場を婆と聞いてしまった)のですが(笑)

小さい頃に、何かにつけて臆病でおっかなびっくりしながら行動していた僕も、父にはいろいろ茶化されました。僕は長じてからは父とはずっと折り合いが悪かったですが、しかし、長じて後も父に茶化されるのは別に嫌ではなく、自分でも笑ったりしていました。

うまく茶化すことができるって、こういうことなのかなと、今振り返るとそんな風に思います。うまく茶化されるとうまい具合に肩の力が抜けるんですよね。

僕自身の茶化し方を振り返る(1)

僕自身も学校で、職場で、いろんな人をいろいろに茶化してきました。今、ひとつ高校受験のときのことを思い出しました。

高校受験会場での昼休み、僕らは同じ中学の出身者で集まって弁当を食べていました。その中にとても自信家の奴がいて、午前中の科目についてこんな風に言いました。

午前中の問題、簡単やったなあ。
始まって1分でもう1問目解き終わって2問目にとりかかってたよ。

僕はそれを聞いてちょっとカチンと来たんですよね。それでこう言いました。

へえ、すごいなあ。
始まって1分後やと、僕なんかまだ自分の名前書いてたわ。

こういうの、「茶化してる」と言えるのかどうか微妙ですが、まあ、「茶々入れた」のは確かです(笑)

で、この茶化しがうまく行ったかと言うとそれは微妙です。この発言で僕は(他のみんなは笑ってくれましたけど)彼の笑いを取ることはできませんでしたからね。それどころか、逆に彼は黙り込んでしまいました。

まあ、元々それは反感から出た「皮肉」でしかなくて、少しほぐしてやろうなんてことは全く意図してなかったんだから、当然ですけどね。

明らかに茶化しの修行が足りていませんでしたね(笑) 多分、その茶化しは「文化」の域に達していなかったということなのでしょう。

僕自身の茶化し方を振り返る(2)

何はともあれ、僕らは学校でも職場でも随分茶化し合ってやってきたと思っています。

会社に入ってからもそうです。

当時ウチの会社には(今はもうありませんが)課長という全く権威のない役職があって、いくつだか忘れましたが僕が課長に昇格した直後(多分30代だったと思います)から、隣に座って同じ職務についている数歳下の同僚に、「課長、如何いたしましょう?」「課長、御聖断を」などと茶化しまくられました。

判断を迷っているときに限って言われたもんですが、そういうの、好きでしたよ、僕は。

部長になって初めて部下の結婚式に呼ばれ、社内カップルだったこともあって主賓挨拶を仰せつかったときにも、可愛い部下を茶化しまくりました。

結婚式って、今はもうそんなに大々的にやる人は少ないんでしょうけど、ある意味みんなの前で新郎が茶化される場でしたよね。中には勘違いして新郎の過去の悪行を暴露するだけに終わってしまう人もいましたが、そういう露悪的なものはやっぱりめでたい場にはそぐいません。

僕はそのときの新郎新婦入場の BGM が当時の大ヒット曲である BLACK EYED PEAS の Where Is the Love だったことに気づいて、型通りの「おめでとうございます」に続いて、予定していた原稿を変更して、こんなことを言いました。

皆さん、今新郎新婦が入場されたときの BGM お聞きになりました? BLACK EYED PEAS の Where Is the Love ですよね。新郎のT君が選びそうなヒップホップの名曲ですが、彼はこの歌詞読んだんでしょうか?

これ、「世界中がテロとか戦争とかばっかりやって、ひどいことになっている。愛は一体どこに行ってしまったのか?」っていう、一種の反戦歌ですよ。おふたりの愛はこれから一体どこに行ってしまうんですか?

タイトルに Love って入ってるから結婚式にぴったりだろうと早合点した、如何にも T君らしい選曲で笑わせてくれました。

これはどうでしょう? 多少新郎新婦の緊張を解きほぐせたのではないかなと思います。T君も笑い転げてましたし、会場もそれなりに和んでましたから(ただ、この2人は後に離婚してしまいましたが…)。

いや、自慢したくて書いたんじゃないんですよ。自分なりの失敗例と成功例を並べて、茶化すということのあり方を考えてみようとしたんです。「茶化す」が文化になるって、「茶化す」が親密性を獲得するってどういうことなんだろうか、と。

正しい茶化し方、茶化され方について考える

僕は、茶化されることは屈辱に耐えるようなことであってはいけないと思うんですよね。そこに悪意は感じられないものであってほしいし、茶化されたほうも、わざわざ隠れた悪意を読み取るようなものでもないと思っています。

でも、もしもあからさまな悪意を感じたときには躊躇なく反撃します。多分この躊躇のない反撃が、今の若い人たちは苦手なのでしょうが。

僕は喧嘩をするときには常に「もうこいつと一生口が利けなくなっても構わない。日本には1億人以上の人がいるんだから、たったひとりと口が利けなくなっても痛くも痒くもない」と思って、ガチで反撃に出ます。

そういう類のものとは一線を画すのが「茶化す」という行為だと思うのです。

僕はうまく茶化されると「ちょっと腹立つけど、うまいこと言いよるなあ、こいつ」とヘラヘラと笑ってしまいます。そして、茶化された自分を見て、「あ、ちょっと力入り過ぎてたかな」などと気づいたりするのです。

茶化すほうには(「愛」とまでは言いませんが)少なくとも「好意」は必要かと思います。そして、茶化されるほうは考えすぎないことだと思うんですよね。明石家さんまさんが女性ゲストをいじっているのを見たときみたいに単純に笑っていれば良いのではないかと。

僕らの世代はお互いわりと茶化し合って生きてきたので、この年になってもいまだに茶化してくれる友だちがいるのはありがたいことだと思っています。


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