見出し画像

人と〈向き合う〉

大学に入ってから、人と関わる事が圧倒的に増えた気がする。それは環境の影響なのか、私自身の行動の影響なのか、それとも両方なのか。
こんにちは、ヤマです。桜はもう散ってしまい木々は緑で溢れてきました。
GWが終わり、大学にも慣れてきたので、自分と〈向き合う〉時間を作っています。

人と関わるという事は、自分自身に新しい学びや刺激などの変化が起きたり、相手にも同じような変化を起こす事だと思うんです。大袈裟に言うと、相手の人生に選択肢を与えるような事を私たちは日々、繰り返しながら過ごしているんだと思うと、人生とは自分と相手で作るモノなのかもしれなせん。

私は、人と〈向き合う〉時に意識している事は何なのか、考えてみました。
普段、無意識にしている事を自覚するのは、とても難しくて考えすぎて頭が痛いです。笑笑
考える中で大切にしたのは【人が好きな自分】【人が怖い自分】の2つの顔を持っているという特性です。この特性は、無意識に私の中で変化しながら私は人と関わっています。多重人格のような全てが180°変わるようなモノでは無くて2つの顔の割合が変化しているようなモノだと思います。
どちらの顔も私が一生、付き合っていく顔であり〈向き合っていく〉顔です。

そんな私の特性の事も考えながら、私は人との出会い・関わりは一期一会だと感じて大切にしている、いや大切にしすぎているのだと感じました。
人はいつ離れていくか分からない。そして、人はいつ死んでしまうか分からない。それが過剰に私にプレッシャーを与えている。だから、私は人と関わる時は、相手が少しでも幸せな気持ちを持ってもらえるように気を使いすぎてしまう。しかし、自分自身は、この行動について自分に負荷をかけている・内側にある自分に鎖をかけているとは一切思ってません。なぜなら、これが私のやりたい事だから。

もう少し我儘になっても良いのかもしれない。もっと自己中心に動いて良いのかもしれない。だけど、私は生きている中で「気を使わない」という選択をした事が無い。誰といても、小さくても気を使っている。これは、私が今まで生きてきた中で学んできた人との〈向き合い方〉の現在の答えです。

もう一つ。人と〈向き合う〉という事は自分と〈向き合う〉事に繋がっている。私は、自分を完全に知っているかと聞かれると答えられない。自身を客観的にみて分かる事・理解できる事もあるが、他者から知る[自分]もある。

私は後者が多い人生を歩んでいる。自身の「当たり前」が相手にとっては「非日常的」である事はある。そこに気付いた時・気付かされた時、自身はアップデートされ、自身と〈向き合う〉絶好の機会だと私は思うのです。
相手には、どこが非日常的に見えたのか?なぜ、自身はその行動が当たり前だと思っていたのか?

そこを考え、答えを見つけた時。
私は、どこか自分が好きになれる気がする。そして、自分を許せるようになる気がする。

私は出会う人・関わっている人全員を幸せにする事は出来ない。
だけど、手を伸ばせば届く・走れば間に合う距離にいる人は幸せにしたい。
遠くからでも、私にLINEやインスタのDMで手伝い・助けを求める人にも全力で応えていきたい。
今は、そうやって全力で向き合っていくしかない。これからの人と〈向き合う〉への答えを見つけるために。自分とまた〈向き合って〉行くために。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?