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「大丈夫ですか?」から始める人助け

「つらい時は助けを求めて・・・」
なんて言葉をよく見聞きするけれど、求めれば・・・誰かが助けてくれますよ救われますよとでも言いたいのだろうか。そう言うあなたは助ける気、本当にあるんですか??助けを求めたところで、本当に助けてくれる人なんて。。。

かく言う私は、手を差し伸べることができるのだろうか。

ご婦人が、突然看板に倒れかかった。
今にも倒れそうなところを、その看板にもたれることで持ち堪えているようだった。

途切れることなく、たくさんの大人がゾロゾロ歩いているお洒落な商業施設。
とある大都会の広ーい商業施設のなかには広ーいガーデンがある。
梅雨明けはまだなのに本格的な夏が始まったと誰もが思うであろう暑く晴れた7月最初の日曜日、午後のことだった。
ガーデンに面したいくつかのカフェは、店内だけでなく外にも席があり、それがまた優雅な雰囲気を醸し出していた。
私は5歳の息子と一緒だった。
用事を済ませてヘトヘトでお茶して休憩したいところだったけれど、どこもかしこもカフェは満席。あきらめて、家路へ向かうことを選んだ矢先のタイミングのできごとだった。

私たちとカフェの間には、大きめ太めの頑丈な作り、定期的に清掃されていそうな清潔感のある電光掲示板があった。そこにはその商業施設のショップや開催中のイベントなどの紹介がキラキラと映し出されている(えと、、この点に関してはうろ覚えだけど)。

私と息子はその看板のことなど気にもとめず通り過ぎ終えようとした。
その瞬間のことだった。

前方から来た、日傘をさした白髪で色白のご婦人が、倒れるかのようにその掲示板に両腕をついて立ち止まった。
私たちが彼女を認識したのはまさにその瞬間が初めてだった。私たちはおそらく1秒ほど立ち止まり、そのまま進行方向へ進んでは行けない気がして、2歩ほど引き返した。なんというか、息子と私は息があった動きをした。

ご婦人のすぐ後ろを歩いていた若い女性2人組も「え・・・」と囁くような音を発したまま立ち尽くしている。
ほかに立ち止まる人はいない。静止した空間はそこだけだった。辺りは何ごともなく、人々は流れ続けていた。

ご婦人は誰かに助けを求めていない、ように見える。
必死で平気な素振りをしようとしている、ようにも見える。
人に迷惑をかけたくないと思っている、ようにも見える。
人に心配されたくない、ようにも見える。
自分でなんとかしようとしている、ようにも見える。
「大丈夫ですか?」と聞いても「大丈夫です」と言いそうな人に、見える。

彼女は道に倒れることも座り込むこともせず、日傘をさしたまま、なんとか看板に両腕をついて身体を支えて立ち続けている。

救急車を呼ぶには、時期尚早のように見える。
最近は何でもかんでも救急車を利用されることが問題となっているようなニュースも見たことがある。
救急車を呼んで大ごとになることをこのご婦人は嫌がるかもしれない。

なんてことも思った。

だがしかし、
彼女はしんどそうでつらそうで限界ギリギリかろうじて意識を保っている、ように見える。

すべては私の憶測だ。良くも悪くも。
最近は憶測でものを言うことがよくないという風潮がある気がする。
そういう場合も持ち路なるのだが、なんだか、なんでもかんでも憶測が間違い扱いされているかのような気がしてならない。
思いやりや優しい想像力をも「それって誰かが言ってたんですか?」「それって事実なんですか?」「それってあなたが勝手に思ってることでしょ?」と言われている気がするのは、そういう経験があるからだ。
そうなるともう、身動きが取れなくなる。

私は医者でも看護師でも救急救命士でもない。
それに準ずる知識もない。スキルもない。

彼女は、熱中症なのかな・・・と思った。
でも、私は熱中症になったことがない。
熱中症の人に出くわしたことすらない。
だから、熱中症なのかどうかはわからないし、熱中症だとしてどのように対処すればよいのかもわからない。
私は未開封のペットボトル飲料は持っていないし塩飴も持っていない。
近くに自販機やコンビニはない。少し先にドラッグストアは見えるが、この状況でこの場を離れて、経口補水飲料や塩飴を買いに走ることはなんか違うだろう。
声をかけたところで、助けようとしたところで、私にできることは何もない。何ができるのかがまったく分からない。でも、誰もご婦人を助けようとしない。それどころか、彼女のことを気にかけて立ち止まっているのは私と息子と若い女性2人組のみだ。他に誰かが助けに来ることも心配するように立ち止まることもない。むしろ誰も気づいていないかのように人々は通り過ぎ、すぐ近くのオープンカフェでは各々のティータイムが続いている。

自分に何もできることがないからといってこの場を去るわけにはいかない。

書き出すとずいぶん長時間突っ立っていただけのように見えるけれど、実際には10秒ほどのことだったと思う。
その10秒ほどで、必死に自分の頭を働かせ、見える限りの情報を収集しようとし、自分にできることすべきことを探したり判断しようとした。同時に複数の考えや思いも巡り、どうしようどうしよう・・・と内心はパニック寸前だった。

この一角だけが、静寂に包まれていた。
私たち親子と2人組が突っ立っていて、その前でご婦人が回復するわけはなかった。早く何か対処しなければ、本当に倒れてしまう。

「大丈夫ですか?」

その静寂を破ったのが5歳の息子だった。

その言葉につられて私もようやく声をかけた。
声をかけると同時に、ご婦人のすぐそばまで歩み寄った。

ご婦人は、ノーリアクションだった。
でもこれは無視されたという感じではなく、とにかく気を失わないようにすることに全力を集中させているがゆえにしか見えなかった。

仮に「大丈夫です」と返されたとしても、私たちには大丈夫そうには見えないし、そこを取っ掛かりに私たちに手伝えることはないか探しただろう。

おそらくそのタイミングで若い女性2人組はどこかへ行った。

男性が1人「大丈夫ですか」と来てくれた。
私はその人に「椅子、椅子を・・」とカフェの方を見ながら咄嗟に口にした。
とにかくせめて、彼女を座らせなければと思っていたからだと思う。
男性はサッとカフェの方へ動いてくれた。
その間、ものの数秒なのだが、ご婦人は腕の力が尽きたようでいよいよ倒れ込みそうだった。私は慌てて彼女を支えたのだけれど、彼女は私よりも背が高いうえに身体の力があまり入らないようでだらんとしていて、私1人で彼女を支えられるのは時間の問題だと焦った。
男性が椅子を取りに行って戻ってくるまでの時間は、おそらく1分ほどだったはずだけど、随分長く感じた。切羽詰まった気持ちで、一刻も早く椅子を持って男性が戻ってきてくれることを願った。
男性は椅子を持って戻ってきてくれ、ご婦人抱えて椅子に座らせてくれた。
私も彼女を支えていたけれど、私の力はおまけ程度だ。

椅子へ移動する際に、彼女は日傘を落としかけた。
私はその日傘を畳んで彼女のそばに置いた方がいいのではないかと思ったが、彼女が日傘を握る手はしっかりしていて、落ちかけた日傘を彼女の身体の方へ戻したらそのまましっかりさせていた。
ご婦人は目は閉じていた(うっすら開けていたかもしれない)けれど、椅子には座り続けられている様子も見て、ひとまず、ひと安心した。本当の本当に危なければ、椅子に座るなんてことはできないだろうから、と思ったからだ。

「店員さん・・?」
とその男性に問うと
「あ、はい」
と返ってきた。

だから、あとはもう任せれば大丈夫かなと思い、その場をあとにした。
でもなんとなく直行で駅まで向かうことができず、辺りをブラブラした。

「大丈夫ですか」と最初に声をかけたあとは、ご婦人が椅子に座るまでをはしゃぎもせずウロチョロもせず黙ってそばで見守っていた5歳児。息子は何ごともなかったかのように唐突にYouTuberごっこをしてみたり、走ってみたり、リュックに忍ばせていたお友だちに折ってもらった鶴を出してなんとか水遊びができないかと綺麗な人工的な池みたいところで右往左往したりもしていた。

ご婦人の一件で忘れていた疲れと小腹の減りを思い出した私たちだったが、やはりカフェは満席のままだった。
やっぱり帰ろうかーと話し、その前に、なんとなくやはり気になってさっきの場所に戻ってみた。

戻る途中、警備員のような格好をした人が空っぽの車椅子を押していた。
さっきの場所まで行くと、あの黒い椅子だけが残っていた。

なんとなく後ろ髪が残ったような感覚がずっとあり、そのポツンと佇む黒い椅子を見たときに「やはりもっと何かできたのではないだろうか」「あの男性は本当にカフェの店員さんだったのだろうか、、私の勘違いではなかっただろうか。だとしたら、あの人に後のことを任せっぱなしにしてしまったのではないだろうか」「もっとあの人とコミュニケーションを取って、ご婦人の水分補給やもっと涼しい場所への移動の相談をすべきではなかっただろうか」「医務室があるのか聞けばよかった。あるならそこの人に早く連絡とるべきだった」「椅子に座ってるだけで回復なんてするのだろうか」などなど頭の中で思いがぐるぐるし続けた。

救急車の音は聞こえなかった。
街中の人たちがざわつく様子もなかった。
だから、きっと、彼女は今ごろどこかで生きているはずだ。

だけど、やはり本当は、彼女が回復するまで(または医務室など然るべきところへ行くまで)寄り添うべきだった。

もはや、どちらのどなただかも知らない彼女がどこかで元気に過ごされていることを願うしか信じるしか、私にはできない状況となってしまった。

あの時、突っ立っているだけに見えた2人組も、もしかしたら内心は私と同じだったかもしれない。助けたいが、助け方が分からない。
どうしようどうしようと内心パニックになっていた私も、はたから見ればしんどい人を前にしてただ突っ立っている人に見えただろう。

そして、本当にこの状況に誰も気づいていないのか!?というくらいに通り過ぎていった人たちも、もしかしたら、自分には何もできないから・どうすればよいか分からないから、気づかないフリして素通りしたのかもしれない。

でもきっと、ひとまず何もできなくてもよいのだと思う。
とにかく「大丈夫ですか」と心から心配して寄り添うことからはじめなければ、きっと何も誰も助からない。

術がなくとも助けようと心配してくれる人がそばにいる状況と、
周囲に人がいるのに誰も何もしようとしてくれない状況は、
似ても似つかぬことなのではないだろうか。

そして、私はひたすら息子の尊敬と感謝の気持ちを抱く。
大人がわんさかいたあの環境で、最初に「大丈夫ですか」と声をかけたこと。
その声がけのおかげで、(親として大人として情けないことだが)私が動けたこと。言い換えれば、助けを必要としている人のために周囲の人を動かしたこと。

どこに行っても、大人は偉そうに自分の正義を振りかざして話している。
このエッセイを書いているカフェでも、「これはあーだこーだなのに、あの人はこんなことをしたの〜」「あの人がかくかくしかじかのせいで、みんな迷惑してる」みたいな話が聞こえてくる。
ちょっと自分とは違う雰囲気の人を見かけてはヒソヒソクスクスしている。
あたかも、自分が正しくて常識的で普通で、なんだか何かを誰かを見下して偉そうに。

そのなかのいったい何人が、
目の前の助けを必要としている人に「大丈夫ですか」と心から心配して声をかけられるのだろうか。



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