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セカイに君を寝取られること、あるいは君を救えなかった自分に酔うことへの自己批判

 新年早々、怪文書を作ってしまってすみません。Twitterで書いたことが思っていたよりも拡散されたので、一応補足と備忘録を兼ねて走り書きをしておこうと思い、この文章を作りました。ちなみに僕はいわゆる「セカイ系」がわりと好きで、『天気の子』もおおむね楽しく拝見したクチです。

 そして以下の文章では『天気の子』と『神様になった日』のネタバレがあります。これはド素人の妄言なので、特に面白みも真実味もありません。それをご承知おきください。

 上記ツイートの発端は、1月3日の『天気の子』地上波初放送です。自分はすでに2回この作品を見ていたので、今回は流し見をしていたのですが、なんとなく感想ツイートを検索していると、「気持ち悪い」というコメントが目につきました。自分が初めてこの作品を見たときにはあまりそういう気持ちにはならなかったので、なぜそうなるのかな、と考えてみました。その結果、やはり「俺が女の子を救わなければならない」という変質したマチズモが気持ち悪いのかな、との考えに至ったのです。

 セカイ系の定義について話すと世界戦争が勃発するので、ここでは仮に、自分なりのアバウトな認識を置いておきます。「きみとぼくの密な関係が世界の命運に直結するもの。その中でも特に、エヴァンゲリオンを想起させるようなエモいもの」といったところでしょうか。そう考えると『天気の子』はやはりセカイ系の系譜であり、その最終形態なのかもしれないな、と思うのでした。帆高と陽菜さんの関係が世界(と言うにはいささか狭い東京という一地域ではありますが)の命運と直接に関わっているので。

 一方、『神様になった日』はそこまでセカイ系という雰囲気ではありません。ざっくり説明すると、ある日主人公の前に「全知全能の神」と名乗る少女が現れ、実際に人間離れした予知能力を見せつける、というお話。少女は主人公の幼馴染への想いを応援し、野球をしたり映画を撮ったり、ともに青春の日々を過ごします。しかし、少女は実は重篤な病に冒されており、脳に機能を補助するためのオーバーテクノロジーを埋め込まれていたのです。

 彼女の異能を知った“世界”は、彼女の存在そのものが危険であると判断し、少女は少年と引き離され、黒服の男たちに連れていかれてしまいます。やがて少年が発見した彼女は、脳から機械を取り除かれ、話すことも走り回ることもできない状態になっていました。そんな少女ですが、少年は彼女への想いを諦めきれず(いつの間にか幼馴染よりもその少女のことを好きになってしまっていたようです)、ろくに会話することができなくなった少女も何故か少年のことを求めており、二人は周りの仲間たちに囲まれながら一緒に暮らしていく、という結末でした。

 この作品を好きな方には申し訳ないのですが、僕はこの結末を見てわりと気分が悪くなってしまいました。むかし見た『AIR』はとても好きだったので、多分作り手側の意識はあの頃と変わっていなくて、僕の意識の方が受け付けなくなってしまったのだろう、と思います。

 『天気の子』と『神様になった日』、どちらの作品にも共通しているのは、「俺が少女を救わなければならない」という自意識と、「セカイに寝取られた少女を奪い返す」というシチュエーションでしょうか。余談ですが僕はいわゆる寝取られものが好きな人間で、ある日「あれ、僕がセカイ系やそれに近い雰囲気の作品が好きなのって、セカイに好きな相手を寝取られるからでは?」と気付いたのです。そして二作とも、セカイに寝取られた相手を奪い返す話になっています(その点がとても家父長制っぽいし、パターナリズムだなと思いました)。

 そもそも、寝取られもの自体が、「セックスしただけで人間を所有できるわけではなくね?」という指摘があり、本当にその通りなのでその点に留意して視聴しなければならないものであります。好きな相手が間男君や間女ちゃんの方に行ってしまったからといって、それが=所有ということではないですし、むしろより強い快楽を与えた側の勝利、みたいなバトルロイヤルみがあります。好きだった人が取られたのではなく、快楽という一指標における優劣の差でしかないわけです。そして相性、何を優先して行動するかは人によって違うわけなので、必ずしも”自分”が否定されるわけでもありません。

 それでも寝取られものやセカイ系が好きになってしまう自分って何なのだろう?と、自問してみます。その結論としては、「好きな相手を救えなかった喪失感に酔うマゾヒズム」なのではないかと思いました。僕の場合は、本当に相手のことが好きで悔しいというよりも、「好きな人を失ってしまった喪失感」そのものが気持ち良いのかなと思いました(最低すぎる)。だから、相手のことを好きなようではあるが、本当に相手の主体性を尊重できているのか?という疑念が生まれてしまうのです。

 今回挙げた二作は、主人公の内面描写は多いですが、ヒロイン側の内面描写が弱いように感じました。もちろん、女性側も合意の上でセカイから奪い返している形ではあるのですが、どこか主人公の独りよがりな感じはぬぐえません。このアンバランスさがエロゲっぽいと言われる一要因なのかなと思いましたし、マチズモを感じる部分でありました。

 ただ、ここで気を付けておきたいのは「君を救えなかった」というマゾヒズムは、必ずしも男性向けエロゲ的な作品に限った特徴ではないということです。例えば、僕が好きな女性向けR18ゲームに『蝶の毒 華の鎖』というものがあります。この作品は「黒い乙女ゲーム」として有名なのですが、というのもバッドエンドがスゴイんですよね。ヒロインが監禁されたり人を殺したり心中したり不倫したり…という闇のルートがてんこ盛りで、ハッピーエンド以上の力強さがありました(ハッピーエンドもとてもいいものでしたが)。

 僕はそんなに美少女ゲームも乙女ゲームもやりこんでいるわけではないのですが、それでもこの作品を含む何作かをやっていると、R18乙女ゲームは結構バッドエンドが充実してる作品が多いというか、好きだった男と心中したり監禁されたりするオチが多い印象を受けました。美少女ゲームでこんなに鬱屈した作品って主流派だっけ?みたいな気持ちになります。そして、僕はこういう女性向けのバッド~メリーバッドエンドな作品がとても好きなので、これはなぜかとまた自問自答してみました。

 すると、やはりここでも、「君を救えなかった」というマゾヒズムが発揮されていることに気付きます。というのも、黒い乙女ゲームでは攻略対象の男性の精神的な傷を癒さないとバッドエンドに突入します。ハッピーエンドに行くには、”精神分析”をして相手のメンタルケアをしないといけないんですね。だからバッドエンドで悲惨な展開になるのは「君を救えなかった」自分への罰なのです。攻略対象がヤンデレになると、「巨大感情に向き合ってあげられなくてごめんな…」としんみりします。でもそれが気持ちいい(最悪)。余談ですが女性向け二次創作においても、「ヤンデレ化」というのは結構充実してるジャンルの一つだったりします。

 ちなみにセカイ系は「ぼくときみ」しか見えていないという意味で、男性向け創作においては比較的珍しい突き詰め方をしている作品群ですが、女性向けだと「私とあなた」という世界に閉じていくお話は決して珍しくありません。「理解のある彼くん」漫画に限らず、共依存的な恋愛関係になることで周りから隔絶されて幸せになるという筋の話は多いです。この辺の非対称性はやはり現実のジェンダーの問題なども関係していると感じますが、ここでは割愛させてください。

 セカイ系もヤンデレ作品も、共通するのは「愛によって相手を救う」ということです。でも愛ってそんなに万能なのでしょうか? 確かに愛による救済の物語は美しいです。でも愛で救ってしまって良かったのでしょうか? しかるべき機関に相談して癒やすべき、支援を受けるべきケースもあったのではないでしょうか? そして人間を救ったからと言って、救った側も救われた側も、相手を愛さなければならないわけではありません。救うこと=恋愛という縛りは、かえって身近な誰かを救う際の枷になっているのではないでしょうか。愛というのは全員が得られるものではないのに、「愛されさえすれば救われる」と思いこむのは危険です。愛になにもかもを背負わせて、不都合な現実から目をそらしてはいないか。愛されない人間を救う仕組みをどう作っていくべきか。作品それ自体を楽しむのは良いことですが、そこから何を読み取るのか、作品に鏡写しとなった自分の内面とどう向き合っていくのか、今一度問い直さなければならない時が来ているように感じました。

追記:僕は『天気の子』や『沙耶の唄』のような、愛による革命が大好きではありますが、同時に、世間が愛というものに色々背負わせすぎてはいないか?と不安になることもあります。例えば「非正規雇用で収入が少なく苦しい」という人に対して「お金のある人間に愛される自分になればいい」というのは、社会問題を無視して愛になんでも押し付ける現状肯定・自己責任クソムーブであるなと思ってしまうのです。そういう問題意識を少し盛り込んだ内容になっています。

 この文章はタイトルにもあるように、自分の自己批判のために書いたメモのようなものです。「気持ち悪いのは作品じゃなくてお前の方だよ…」くらいの生ぬるい目で見てもらえれば幸いです。

再追記:流石にセカイ系の定義がガバガバ過ぎたので、文献をいくつか読み直して訂正しました。

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