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#山に十日 海に十日 野に十日 1月

伝統行事=鬼火焚きのこと

1月7日は、屋久島の各集落で「鬼火焚き」が行われる。門松や注連縄(しめなわ)などを一か所に集めて燃やし、その赤い炎で「鬼」を焼き殺して、この一年間の無病息災を祈願する年中行事である。

ぼくの暮らす宮之浦集落では、現在NTT前の広場で行っているが(かつては益救神社前の砂浜で行っていた)、昔と比べると、ずいぶん小さな「鬼火焚き」となってしまった。その一番の理由は、昔ながらの門松飾りをする家が少なくなったからだろう。時代とともに簡素化が進み、最近では門松を印刷した紙を玄関に貼ってすませる家も増えてきた。独居老人世帯が増加する中、それは仕方のないことなのかもしれない。なんとも寂しい話であるが……。

そんな状況下で、ぼくは(70歳を過ぎたとはいえ)相も変わらず昔ながらの「門松」を作り続けている。
宮之浦の伝統的な門松は、「椎の木」を使う。常緑樹の椎の木が、神様の依り代となるのである。
だが悲しいかな、そんな昔ながらの門松を飾る人は、ほとんどいなくなってしまった。集落全体で数人いるだろうか……。
何故そうなってしまったのか。それは、椎の木が生えている「雑木山」が、いつの間にか身辺から消えてしまったからである。

伝統を維持するということは、「思い」だけでは難しい。「環境」も一緒に保持されていないと、維持できないのである。

30年前、民宿を作ったとき、庭に生えていた椎の木を、伐らずにおいた。「まず頼む 椎の木もあり 夏木立」という一茶の句が大好きだったし、その緑陰が心落ち着く空間でもあったからである。
あまりにも大木となり、隣地に迷惑をかけない程度に剪定しては、シイタケの原木にしたりしていたが、ここ数年は、その枝を「門木」(かどぎ)として使わせてもらっている。
「必要なものは、自前で準備するしかない」。ついでに、ユズリハの木も、すぐ横に植栽した。

門松を立てるのは、12月28日か30日に行う(29日は「苦」が入っているので避ける。その日は、餅つきなどもしない)。
松とユズリハを採取し、門木の支えとする割木を椎の木で作り、注連縄用のウラジロと海砂を取りに行き、準備完了。
午後からは注連縄作りに取り掛かる。ぼくの集落ではもはや、コメ作りをしている人がいないので、友人を通じて永田集落から稲わらを分けてもらっている(稲わらが手に入らなくなったらお手上げ。なんともおぼつかない状況である……。危うし、伝統!)。

門松を飾り終えたら、海砂を根元に盛り、注連縄を張って完成となるが、厳密にいうと注連縄を張るタイミングというのもある。引き潮ではなく、「満ち潮の時間帯に合わせて取り付けなければならない」と昔の人は言う。そういう手順を踏んで、ようやく「結界」は完成するのである。

つぶさに見ていくと、鬼火焚きという伝統行事は、すでにいろいろ変容している。
門松飾りの材料に関してもそうだが、例えば鬼のやっつけ方も、かつては鉄砲で射ていた(他の集落では、弓矢を用いたり、石つぶてを投げつけたりする所もある)。また、鬼の絵を千切って魔除けとしたり、割木の燃えさしを持ち帰って「火の用心」の守り棒としたりした。また燃えた後の煙を身体に浴びる光景も、数多く見られたものである。
それから、かつては「鬼の糞」〈オンノクソ〉というものもあった。鬼火焚きの炎で焼かれた鬼が、昇天するときに糞を垂れ、それが8日の朝、空から降ってくるのである。餅がご馳走だった時代の話で、当時の子どもたちは嬉々として庭の中に落ちている「オンノクソ」(鏡餅)を捜しまわったものである。

伝統行事のさらなる変容の一因として、コロナウィルスの流行が拍車をかけている。ここ3年間、子どもたちは「祝い申そう」を唄うこともなく、鬼火焚きの夜、町は静寂に包まれている……。
せめて一節だけでも歌わせようという計らいからか、鬼火焚きの会場に子どもたちを集めて唄わせたのはよかったが、なんと火をつける前に唄わせたのは、順番が逆だったと思う。 
鬼火焚きの炎で、鬼を焼き尽くした後に、みんなで大声で「祝うて申す」と唄うのが、本来の順番だろう。

変わっていくことは仕方のないこと。時代とともに、変えていくべきことや、変わっていくべきものが、いろいろあるに違いない。
だが変えてはいけない本質というものもあると思う。過去の伝統や、現在のこの島全体の鬼火焚きの状況を今一度チェックし、問い直してみる必要があるのかもしれない。

下記は、今から15年前に新聞記者をしているときに書いた記事である。

全島「祝い申そう」大会 

 正月七日、屋久島の各集落では、子どもたちの歌声が夜の街に響き渡る。小・中学生の子どもたちが歌う「祝い申そう」である。鬼火たきの煙のにおいがまだ残る中、めでたい文句を連ねた福を招く祭文を、家ごとに唱えながら巡る伝統行事である。
 江戸時代から続くという、その行事を取材して驚いた。昨年は楠川集落のものを、そして今年は安房集落のものを聞かせてもらったが、節回しはほぼ似ているのだが、唱える文句がずいぶん異なるのである。例えば、安房の場合、家ごとに世帯主の名前を唱え、またその職業によって歌詞を変える。さらに、未亡人の家では違う文句を唱える……。
 取材をしていて、もうひとつ気づいたことがある。それは、同じ日、同じ時間帯に行われる行事なので、同じ島に住みながら島民たちはお互いの歌を聴くことはないということである。当たり前の話であるが、何かとても、もったいないような気がしたのである。
「祝い申そう」合同発表会みたいなものを開けないだろうかと思う。町民が一堂に会する場で、それぞれの集落に伝わる歌を披露しあう。長い歴史の中、各集落の中で培われてきた伝統文化を、その違いを、互いにまず知り合うこと。そういう交流が今、とても大事なことのように思える。
 屋久島町が誕生して三ケ月余。曲折を経ての合併だったゆえに、島民の一体感醸成が当面の大きな課題。融和の一助にならないだろうか、と思うのである。

南日本新聞「記者の目」2008.1.18. 屋久島支局

屋久島や口永良部島の全集落が、一堂に会して、そんな大会が開けたら、どんなに楽しいことだろうかと思う。コロナが収まった日に、みんなで、大声で!

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長井 三郎/ながい さぶろう
1951年、屋久島宮之浦に生まれる。
サッカー大好き人間(今は無き一湊サッカースポーツ少年団コーチ。
伝説のチーム「ルート11」&「ウィルスО158」の元メンバー)。趣味は献血(400CC×77回)。特技は、何もかも中途半端(例えば職業=楽譜出版社・土方・電報配達業請負・資料館勤務・雑誌「生命の島」編集・南日本新聞記者……、と転々。フルマラソンも9回で中断。「屋久島を守る会」の総括も漂流中)。好きな食べ物は湯豆腐。至福の時は、何もしないで友と珈琲を飲んでいるひと時。かろうじて今もやっていることは、町歩き隊「ぶらぶら宮之浦」。「山ん学校21」。フォークバンド「ビッグストーン」。そして細々と民宿「晴耕雨読」経営。著書に『屋久島発、晴耕雨読』。CD「晴耕雨読」&「満開桜」。やたらと晴耕雨読が多いのは、「あるがままに」(Let It Be)が信条かも。座右の銘「犀の角の如く」。