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#山に十日 海に十日 野に十日 8月

昨日そこに田んぼがあった

自給自足の暮らしを夢見ていたころ、どうしても作りたい作物があった。それは「米」である。だが残念ながら、ぼくが作ろうとしていた上田(かみだ)の田んぼは、既に耕作が放棄され、荒れ果てていた。水の取水口も、そして配水溝も、無残な状態になっていて、とても独りの力で復旧できるものではなかった。

かつて宮之浦集落には、広大な耕作地が二か所あった。ひとつは、現在屋久島電工(ヤクデン)の工場敷地となっている所で、その面積は約63ヘクタール。当時の町(上屋久町)が命運をかけて、町民から約9000万円で購入した土地を、約2450万円でヤクデンに譲渡した。
町がそれほどの財政負担をし、宮之浦の住民たちが先祖伝来の土地を手放したのは、大企業を誘致して経済浮揚を図らんとする、涙ぐましい決断(=賭け)であった。当時の町の試算によると、ヤクデンの誘致によって固定資産税や住民税が、誘致後10年間の合計で1億3000万円の増収。町財政が潤って住民の福祉が向上。人口も昭和40年代には「3万人増加する」と算出している。

もう一つの耕作地は、宮之浦川右岸の上田地区。10ヘクタール弱とそんなに広大ではないが、それでも島の集落にとっては、十分な面積であった。その上田から田んぼが消えたのは、昭和34年(1959)のヤクデン誘致後の事である。

「工場で働けば金が入る。その金で米を買えばヨカ。難儀して米を作ることはない!」

自給自足の、カスカスの生活をしていた島人にとって、賃金という現金収入の道は、その暮らしぶりや考え方を一変させたのである。
昭和30年代から40年代にかけて、いろんなことが様変わりした。プロパンガスが薪にとって替わり(燃料革命)、電気釜や電気洗濯機、テレビの普及。茶の間から、三世代間の語らいが無くなり、民話や民謡、そして方言が消えていく。国有林野においても、チェーンソーが導入され、大面積皆伐が展開。山が禿げ、川が傷み、そして海が変貌していった……。

みんなが米作りを止めていく中で、ぼくの父は田んぼを作り続けた。馬を飼っていたからである。上田で最後まで田んぼを作ったのは、父とSさんだけだった。Sさんは種子島から入植した人で、牛を飼っていた。つまり、馬や牛を飼っていたからこそ、犂起こしが出来、作り続けられたのである(当時は耕運機などなく、動物が頼みの綱だった)。

だが、田んぼを作るというのは、共同作業である。猫の手も借りたいほどに、たくさんの人手を必要とする。互いに手を貸しあうことを島では「イイ」というが、みんなが止めてしまっては、「イイ」も「イイ戻し」も出来ない。だから、いくら犂起こし用の動物がいるからといっても、米作りは大変な作業だった。

1966(昭和41)年、父と二人だけでの田植えは熾烈だったし、稲刈りは悲惨だった。猛烈な台風で、山姥の乱れ髪のごとくに絡まり倒れた稲を、ため息をつきながら刈り取った。収量も例年の半分足らずで、「いよいよ年貢の納め時やな」、父はめずらしく冗談まじりにつぶやいた。翌年、Sさんも米作りに終止符を打ち、上田地区で田んぼを作る人は誰もいなくなった。

放棄されてから半世紀以上が経過し、かつて田んぼだったその地は、ハゼやクサギやアカメガシワなどが生い茂る雑木林となっていったが、やがて公共土木工事で出た土砂の捨て場となり、ダンプで大量の土砂が運び込まれ、もはや見る影もない。

人という生き物は、失ってから初めて気付く動物であるが、田んぼというものは本当に貴重な存在である。自給率が40%しかないこの国において、主食である米を生産する田んぼは、まさに「奇跡」である。
何が奇跡かというと、一般的に、同じ作物を同じ場所で作り続けると、連作障害が起きる。連作障害を防ぐためには、違う場所に作るか、徹底的に土壌消毒をしなければならない。それって土にとっていいことなのか? 作物にとっていいことなのか? 人間にとっていいことなのか? 
何年も、いや何十年も何百年も、いやいや千年も二千年も、同じ場所に田んぼがあるという不思議! それはまさに奇跡としかいいようがない。この狭い国土の中で、いつもそこに田んぼがあるということは!

そんな、奇跡的な田んぼで作られる、「稲」という植物もまた、不思議としかいいようのない作物である。
通常、植物の種子は、「実」が熟すと「落ちる」。そうしないと発芽出来ないからである。ところがたわわに実った稲穂は、黄金色に熟してもけっして落ちることは無い。脱粒しないから、種子全体が熟するまで待って、安心して収穫することが出来る。実に「凄い」ことである(もちろんそれは、人間が脱粒しない品種を辛抱強く追い求めてきた結果だとしても……)。

昔、初めてソバを栽培した時の事。白い花が咲き、やがて実が成ったが、疎らにしか色づかない。全部の実が、黒く完熟してから収穫しようと思い、その時を待っていたのだが、ある日畑へ行ってみて愕然とした。なんと、大半の実が地面に落ちてしまっていたからである。
「えっ? 落ちるんだ!」
その時以来である。ぼくが、稲穂を「凄いなぁ」と尊敬するようになったのは……。

そんなに不思議で、凄いものが、身の回りからどんどん消えていくのだから、一体世の中、これからどんな「凄い」世の中に、なっていくのだろうか!

…………
長井 三郎/ながい さぶろう
1951年、屋久島宮之浦に生まれる。
サッカー大好き人間(今は無き一湊サッカースポーツ少年団コーチ。
伝説のチーム「ルート11」&「ウィルスО158」の元メンバー)。趣味は献血(400CC×77回)。特技は、何もかも中途半端(例えば職業=楽譜出版社・土方・電報配達業請負・資料館勤務・雑誌「生命の島」編集・南日本新聞記者……、と転々。フルマラソンも9回で中断。「屋久島を守る会」の総括も漂流中)。好きな食べ物は湯豆腐。至福の時は、何もしないで友と珈琲を飲んでいるひと時。かろうじて今もやっていることは、町歩き隊「ぶらぶら宮之浦」。「山ん学校21」。フォークバンド「ビッグストーン」。そして細々と民宿「晴耕雨読」経営。著書に『屋久島発、晴耕雨読』。CD「晴耕雨読」&「満開桜」。やたらと晴耕雨読が多いのは、「あるがままに」(Let It Be)が信条かも。座右の銘「犀の角の如く」。