#山に十日 海に十日 野に十日 6月
トッビョワトエタカ
「トッビョワトエタカ」「トッビョワトエタカ」
6月の空に、ホトトギス(杜鵑・時鳥・不如帰)のけたたましい鳴き声がこだまする。本土では、「テッペンカケタカ(天辺翔けたか)」とか「ホンゾンタテタカ(本尊建てたか)」とか聞きなすそうだが、屋久島では「トッビョワトエタカ(飛び魚は獲れたか)」と鳴く。
なぜ、そう聞きなすかと言えば、ホトトギスが飛来する時期が、まさに飛び魚が大挙して産卵に押し寄せる時期と重なり、島が「飛び魚一色」に染まったからである。5月から6月にかけての、わずか2カ月間で、島にはかなりのお金が落ち、島人たちは1年分の食料(塩干品)を確保したのである。
だから、漁師だけではない。百姓もサラリーマンも、役場の職員も、そして高校生や中学生までもが、カコ(水手)として船に乗り込んだのである。
授業中居眠りしている生徒に対して、「飛び魚獲りに行ったんだろう? 寝かしといてやれ」と、先生方も多めに見てくれる、そんな時代がかつてこの島にはあったのである。
飛び魚シーズンが到来するころ、ホウロクイチゴの赤い実が熟す。その実を島では「トッビョイチゴ」と呼ぶ。やがて咲き始めるヒメヒオウギズイセンの赤い花を「トッビョバナ」と呼ぶ。そしていよいよ本番。真っ赤な口から、まるで血反吐をはくように「トッビョワトエタカ」と鳴き叫ぶホトトギスが登場。さまざまな赤い色に彩られた舞台の上で、壮烈な「飛び魚劇場」が展開された──。
昭和9年生まれの、宮之浦のN.H.さんに、かつての飛び魚漁について聞いた。
そんな活気ある時代が、かつて確かに存在したのである!
ところが昭和50年代になると、とんと飛び魚たちは産卵に来なくなってしまった。何故、産卵に来なくなったのか?海流や海水温の変化が原因なのか?はるか南の海の異変なのか。温暖化によるものなのか?
何が原因なのか、よくは分からないという。だが、こと屋久島に限って言えば、昭和30年代から40年代にかけて、国有林内で大面積皆伐が展開されたことは事実である(昭和40年代、その伐採量は年間40万㎥を越えた)。豊かな森が消え、川が氾濫し、海の中の藻場が消滅してしまった……。「山が禿げ、川が禿げ、そして海が禿げた」のである。それから50年、事態はどこまで改善したのか。
「屋久島憲章」の第1条に「島づくりの指標として、水環境の保全と創造につとめる」とある。この島にとって、水環境の保全は最重要課題である。だが、本当に「保全と創造」に努めているのか?
細部を注視すると、屋久島の水環境は悪化しているとしか思えない。例えば白谷の駐車場にあるトイレからオーバーフローしている汚染水。あるいは里に近い人工林の伐採による川の氾濫。さらに言えば、かつて宮之浦川には沢山の天然鮎がいたが、今や絶滅寸前である!
加えて、今なお大量に使用されている合成洗剤や除草剤等による汚染。もはや合併浄化槽の普及だけでは、島の水環境は守れない。山から川へ、川から海へ、そして海から空へと巡る、大きな水の循環全体を視野に入れて対処しなければ、水環境の保全と創造は難しい……。
「トッビョワトエタカ」
「スマンノォ。トッビョワトエンロ」
甲高い声が夜空に響き渡る。姿を見せることなく、まるで詰問するかのように鳴きつづけるホトトギスと焼酎を酌み交わす。
飛び魚たちが、産卵のために、帰って来る日の近からんことを祈って!
…………
長井 三郎/ながい さぶろう
1951年、屋久島宮之浦に生まれる。
サッカー大好き人間(今は無き一湊サッカースポーツ少年団コーチ。
伝説のチーム「ルート11」&「ウィルスО158」の元メンバー)。趣味は献血(400CC×77回)。特技は、何もかも中途半端(例えば職業=楽譜出版社・土方・電報配達業請負・資料館勤務・雑誌「生命の島」編集・南日本新聞記者……、と転々。フルマラソンも9回で中断。「屋久島を守る会」の総括も漂流中)。好きな食べ物は湯豆腐。至福の時は、何もしないで友と珈琲を飲んでいるひと時。かろうじて今もやっていることは、町歩き隊「ぶらぶら宮之浦」。「山ん学校21」。フォークバンド「ビッグストーン」。そして細々と民宿「晴耕雨読」経営。著書に『屋久島発、晴耕雨読』。CD「晴耕雨読」&「満開桜」。やたらと晴耕雨読が多いのは、「あるがままに」(Let It Be)が信条かも。座右の銘「犀の角の如く」。