23.7.11 思考のショートカットキーを分解する
こんばんは。八雲 辰毘古です。
前回、すぐ書くはずだった一気に書いたエッセイがエディタ保存に失敗して消えてしまいました。。。
ので、一週間遅れての更新となりましたが記事の投稿を進めていきたいと思います。
このnoteでは、文章を書くことが好きなアマチュア物書きが日々の生活や読書、創作活動の延長で気づいたこと、考えたことを発信します。最近書いてる小説の告知も末尾にくっ付いてますので、ぜひご覧ください。
感想などもいただけるとうれしいです。
それでは、次から今回のエッセイです。
導入.「結論から話せ」とはどういうことなのだろうか?
社会人になると、まず最初に「結論から話せ」ということを教わる。
学生時代、われわれが会話として行うコミュニケーションは、「〜でね、誰々が何してね、それからね、あと、〇〇が××なの!」と接続詞と話題転換に富んでいる。こうした口語のテキストに現代国語の文法を当てはめても、結論なるものは炙り出すことはできない。
少なくとも、われわれは社会に適合するにあたって、相応の文法や考え方を再構築することを余儀なくされるのだ。
では、「結論から話せ」というのはなんなのだろうか。
一般的な理解としては「余計な前置きはいいからさっさと話せ」ということらしい。
確かに昨日誰が何したかなんてことも、何を感じたかも、目の前の作業を解決するには役に立たないかもしれない。わたしは日中パソコンと向き合う仕事をしているのでなおさらだ。聞き手にとって必要な情報、その本質的なもの以外をなるべく削って届ける。そうすべきだと。
われわれはまるでそれが誰にでもできる訓練であるかのように、ビジネス書やマナー研修では教わるわけである。
しかしだからと言って、いきなり結論を話して「というのも〜」と続けてもどうにもならないことがある。論理に矛盾がなかったとしても、納得してもらえないことすらあるのだ。
こういう場面に何度か出くわすとき、ふと感じたことがある。
われわれが「結論」だと思い込んでいるものは、結局のところ「判断」と同じではないか、と。
本論.結論とは「判断」である
■結論から話しても、わかってもらえるとは限らない
ところで、社会人として仕事をしていると話が噛み合わない人と接する機会が増える。
噛み合わない理由は様々だ。
業界の経験の差、日頃の考え方、好き嫌い、社風、その他もろもろの見えない要素が、たったひとつの同じ言葉を取っても異なる意味づけ、異なるニュアンスを引き出してしまう。
例えば、人が作った作業の提出物を「チェックする」のか「レビューする」のか、みたいなそんな些細な言葉のズレがある。
オンライン会議に「招待する」のか「インビを飛ばす(※インビテーション[invitation:招待の名詞形]の略らしい)」のかでクセになってる表現が異なる。
これらひとつひとつはかわいい〝違い〟にすぎないが、これが積み重なった時、「こうしよう」「ああしよう」の軽い作業依頼が異なるニュアンス、ディテールをともなって届いてしまうのだ。
ひと言で「チェックする」と言いつつも、「上から下まで見た」だけなのか、「独自の注意事項に沿って順番に確認した」のかで、同じチェックでも成果の質が変わる。
結論部分から、つまり「チェックしました。OKです」と言ったときの「OK」は、結論であると同時に判断である。それは結果であるから、途中で何がどうなってそうなったのかはわからない。ブラックボックスのままになる。
もちろん仕事の成果には責任が伴う。そのためいま出した例でOKを出した人間は杜撰なことをした途端、責任を取る側に回ってしまうわけなのだが。
結局のところ、その「結論」がおかしかった時が難しい。結論そのものが誤りなのか、それを出すまでの流れに問題を抱えているのか、真相は闇の中に入ってしまう。なぜなら結論から話すと、そこに至るプロセスが多かれ少なかれ削られてしまうからだ。
「どうしてその結論になったのですか?」という質問は、時として苦しい。というのも、それは「どうしてその判断をしたのですか」と同義だからだ。つまるところ、結論を出す主体の内面を暴く行為に他ならないのである。
そこにはもちろん説明可能なパーツもたくさんあるかもしれない。
が、時として説明不可能なパーツ(感性に基づくもの)や、説明したくないパーツ(やりたくない、めんどくさいと言った表に出すとことを荒立てる感情)が混在していて、本当の問題は行方不明のままになる。
結論から話すばかりではどうにもならないことは、たくさんあるのだ。
■「結論から」の話し方は、ショートカットキーである
こうしたさまざまなディテールの差異を、大抵はあまり意識しないし、したとしても、指摘して簡単に直るようなものではない。
だから、わたしたちはいつしか職場のコミュニケーションに適応した《辞書》を作る。あわよくば《付箋》を付けて、言われたらすぐに開いて意味がつながるように工夫する。
あの人がいつも言ってるこのフレーズは〝あの人の〟クセだから。
この職場ではいつもある資料のことを「〇〇」と呼んでるから、同じ名前を聞いたらこれを思い出そう。
この《付箋》が、《付箋》だと思わずに、スッと出てくるようになった時、初めて人の判断は効率的になる。
人間には「慣れる」という素晴らしい能力がある。われわれは、生存のために頭の中に経験の《辞書》を作る機能をあらかじめ有しているのだ。そこに《付箋》を貼ることで、《辞書》のページをめくるなどという〝無駄〟を省くよう、思考の習慣をつけていく。訓練していく。
結果、われわれはスマートな結論から話せるようになっていくのだ。
さながらショートカットキーを使いこなして進める業務──操作が少なく、より優れた成果が手に入る。この効率化に何の悪いことがあるのだろうか。
■確かに話は早いけれども
業務上、結論からテキパキ話せるようになることは上達を意味する。とても良い意味で捉えられ、高評価の対象となる。
ところが、素早く結論から話せるということは、判断が速いということだ。判断が速いということは、その結論に至るまでのアイデア出しや思考の流れをスキップしていることになる。
もちろん、非専門家よりも短い時間で価値を生み出す。判断が早く、行動できる。そうしたところに仕事上のコミュニケーションの、とりわけ「結論から話す」力の意味があるのだが。
一方で、仕事とは結局のところ人間相手にのみ発生するものでもある。
ぼくはパソコンのにらめっこすることが仕事である。しかしそのパソコンから生み出したものが、どこかの誰かの手で実際に使われることを想定していかなければならない。
となると、結果だけを出せば良いわけでもなく、結果だけを残せばいいわけでもない。出した成果に対して「これはどういうことですか?」と訊かれたとき、応えられるようでなければならないのだ。
その時、ただ「判断が速い」だけでは、結論から話せるだけではどうにもならない。
自分の《辞書》には自分の《付箋》があるかもしれない。
しかし相手の《辞書》にはその《付箋》がないかもしれないのだ。
結論.結果への責任と、過程への責任を分けて考える
説明、という業務上のコミュニケーションを考えた時、むしろ寄り添いの姿勢のほうが高い価値を持つことが少なくない。
結果というのは点である。結論も同様だ。だから「結論から話す」そのこと自体に誤りはない。出発点を明らかにすることは非常に重要なことなのだから。
しかしそれはあくまで点にすぎない。ある種の職場のコミュニケーションでは、「理解」や「納得」のほうが価値がある。そしてその両者ともに、線の体験だ。数々の点を打ち、根拠と論点を示しながら線で結んでいく。そしてようやく見える描画の作業が「説明」である。これには時間も手間も、感情も情報も総動員しなければできない。
結論から話すコミュニケーションは、結果を重んじるコミュニケーションだ。過程や方法については細かく言及せず、むしろ、包括的な見出しさえあれば事足りる。そうした、ブラックボックスのコミュニケーションである。
一方で、過程を伝えるコミュニケーションは、説明と納得を重んじる。主題よりも方法を議論の対象とし、寄り道をしながら感情のひだをたどっていく。決して容易ではない、ホワイトボックスのコミュニケーション。
責任という言葉は、英訳するとresponsibilityになる。これは字義を細かく砕くと「応答可能性[response - ability]」である。われわれが業務上の発言に、判断に責任を負うというのは、そうした人と人のやりとりの応答ができるという、そのことにおいて重きが置かれる。
一方で、忘れられがちだが、責任にはもうひとつ、accountabilityとでも言うべき意味がある。accountは説明である。つまり説明責任というべきものであり、字義をひもとけば、説明可能性[account - ability]」である。応答するだけでなく、説明すること。
いまのビジネスマナー講座が何を教えているのかはよく知らない。
しかし、少なくとも人の話を聞いている限りは、説明責任としての責任を教えてくれる研修はあまり多くないように思っている。
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◎あらすじ
舞台は中高一貫校の男子校。女子が苦手という理由でそこに入学した星野正志少年は、親から強い圧を受けて厳しいとうわさの剣道部に入部してしまう。想像通りのハードそうな雰囲気に圧倒されつつも、その中で勝利する先輩たちの姿に憧れて、次第に自分もそうなれるかと努力するのだが……
敗者が語る青春小説、開幕。大事なのは勝つことだけとは限らない、たぶん。
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