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20.11.07【週末の立ち読み #5】この虚構じみた世の中でリアリティを語ることのアイロニー 〜宇野常寛『母性のディストピア』(早川書房)を読む〜

 いまのこの国に本当の意味で語るに値する現実は一つも存在しない、そう著者は断言している。

 これは過激で早計な断言なのだろうか。興味本位で初めて本書に巡り合う人は、きっとこうした「強い」言葉にたじろぐかもしれないし、首をかしげるか、うなずくこともあるかもしれない。
 本書は日本のアニメーション映像を構築した監督3人(宮崎駿、富野由悠季、押井守)の作家論を含んだ、「戦後の日本の虚構」をめぐる壮大な評論だ。全6部で構成されるこの書物は、うち前半2部と最後の1部において、「政治と文学」と題するリアルとフィクション、または公的なものと私的なものの関係を具さに描いている。

 なぜこうも虚構について論じられるのかと言えば、虚構が持つ「物語」の構造が、歌と同じレベルで人類最古の知的アーカイブであるからだ。そこにはジョセフ・キャンベルが『千の顔を持つ英雄』で巧みに指摘して見せたストーリーテリングが持つ本質的な力に由来する。
 また、ユヴァル・ノア・ハラリが『サピエンス全史』で展開したように、虚構を信じる特性こそが人類に「仲間=共同体」の意識をもたせ、想像力を行使することによって関係性を理解し、社会を構築していった背景もある。
 無論、これはハラリ以前にも、吉本隆明が『共同幻想論』で、アンドレ・ルロワ・グーランが『身ぶりと言葉』で、そしてベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』などがしきりに言及していたことで、それ自体が真新しいものではない。

 古来神話を語り、受け継ぐこととは、その共同体のルールを理解し、受け継ぐことで参加していく(コミットメントする)ことに相当する。
 そこには常に須佐男やダースベイダーのように「試練を与える父」の存在があり、ペネロペや須勢理姫のように「庇護を与える女・妻・母」が存在していた。ここを切り取るとジェンダーやフェミニズムの観点で無数の切り口があるものの、本書とは話題が逸れるのでいったんおいておく。

 とにかく、本書の内容を読むに当たって、こうした虚構=物語こそは「現実の社会における成熟」の問題を取り扱うことになる、という前提が必要なのだ。今回は事前にそのことを言及しなければならなかった。
 ここでいう「虚構」とは、「事実ではないもの」かつ「物語的なもの」である。そこには以下の2つの自由(ないし制約)が存在する。

1.「正しい」ことを書く必要がない自由
2.「本来言ってはいけない」ことを書く自由

 本書の中では、1を「アトムの命題」=漫画・アニメ的な「作られたもの」と、血なまぐさい生々しいリアルとが区分せずに同居している曖昧さ、として、2を「ゴジラの命題」=もはやありえないこと(ファンタジー)の中にしか表現できないような生々しさ、として命名されている。
 実はどちらも「この物語はフィクションです」に続く、あの恒例の免責事項に由来する自由だ。逆に言えば、虚構とはこの免責事項によって居心地の良さを保証されているものでもあるのだ。
 おそらくクリエイター志望の、小説家なり漫画家なりアニメーション作家なり、劇作家なり映像作家なりを目指すことの何割かは、この2つの自由にそれとない渇望があるからなのかもしれない。

 だからこそ、20世紀後半の国民的・世界的影響を及ぼしたアニメーション作家の作品群から、いわゆる「戦後」の日本における成熟の問題と、社会に立ち向かう人間のあり方の、面影のようなものをジトジトと辿っていくのがこの本の目的と言ってもいいだろう。

 本書が一貫しているモチーフとは、肥大化する「母性のディストピア」なるものだ。ここでいう「母性」とは、我が子を慈しみ、保護する反面、自らの意に従わないものを包摂し、屈従させてしまうものの概念を指しており、母そのものではない。
 しかし母的なものであり、価値観の押しつけやお為ごかしのお節介として、人をじわじわと圧迫している構造としても機能する。

 全く無関係だが、スターリングの『ホーリー・ファイアー』に端的に良い表現があったため、引用する。

「政体(ポリティ)だよ。グローバルなポリティのせいだ、おばあちゃんが政府をやっているみたいなものだ。聡明でやさしいおばあちゃんが、お皿いっぱいのクッキーと首切り役人の斧をもっているんだ。
  ━━ブルース・スターリング『ホーリー・ファイアー』小川隆訳 p21

 ある意味では、これはジャパニーズ・フィクションにおける「主人公像」と「ヒロイン像」の変遷を追い、社会化していく工程として見ても良いかもしれない。
 宮崎駿作品における「飛ぶ」表現の背景のロジックや、ロボットアニメにおける「未成熟の少年が大人として戦うための仮の身体」としてのロボット、そして押井守映画における「女戦士ヒロイン」。どれも興味深い内容で、これ単体でも手にとって読む楽しさがあるはずだ。

 本書ではこの背景に「戦後」の想像力の問題を、または袋小路化した課題を前提に話を進めている。それは文庫判巻末のインタビューなどからもうかがえる。

 ここからは、恒例の個人的で主観的なお話だ。

 隠していても仕方がないので、ちゃんと書いておくのだけれど、僕は宇野さんの良い読者ではないという自覚がある。一応『ゼロ年代の想像力』や『遅いインターネット』など、いくつか著作は既読で、普通以上の刺激を受けたにもかかわらず、である。
 それは、僕自身がいい加減なところがあるのと、いまひとつ意味を捉え損なったままチグハグになった言葉が、荒削りの木工細工のようにゴロゴロ音を立てている気分になるからだ。
 このなんとも言えない硬さと荒さの両立は、それ自体が力強く魅力を帯びている。だから無意味だというわけではない。

 それでも、なんともつかみかねるところがある。

 年齢がバレるのでそれとなくぼかすものの、僕は平成1桁の生まれだ。物心ついた時にはベルリンの壁は壊れていたし、社会の授業では北の大国は(ソ連ではなく)ロシアと教わった。
 通信教育に熱心だった頃には、ニューヨークのビルに飛行機だって突っ込んでいた。すでに映像やインターネットが存在し、ショッキングなものが撮られてはアーカイブ化し、違法アップロードと架空請求と出会い系サイトの危険性がひたすら騒がれてすらいた。Youtubeではなくフラッシュ動画が流行っていた頃である。

 世代論で括るのはとても嫌いなのだが、そんな僕にとって、「戦後」という言葉は非常に空疎で曖昧で、それ自体が非現実的なものに響いてしまう。

 もちろん、米軍基地が近くにあるなど、露骨に「戦後」を痛感する環境であると話は別だ。しかし、もはや体験としてそこにいない人間にとって、「戦後」もまた、ガンダムの架空歴史やRPG的ファンタジー異世界と、同じカテゴライズになってしまうのだ。

 しかし、そんな人間でも『風の谷のナウシカ』が、『機動戦士ガンダム』が、『攻殻機動隊(Ghost in the Shell)』の映画や『機動警察パトレイバー the Movie2』が面白いことはわかる。
 けれどもそれは当たり前の話だが、同時代的な体験ではない。インターネット上に浮上するアーカイブであると同時に、時間的な、特に当時の社会に対するメッセージ性やチャレンジ性を剥奪された、美術館のショーケースに入ったものを見るような眼差しであることは隠しようがないのだ。

 それは、あたかも美術館や博物館の内容が、今一つリアリティを持たない上部だけの知識のように見えてしまう現象と似ているかもしれない。

 もちろん、相応の教養をもち、バックグラウンドを理解し、想像力を持ってそこに接すると、深く味わえるものがある。時代を超える作品は、時代を超えてこそ理解できるものがあることを忘れてはならない。
 一方で、アーカイブ化された多くの作品群は、当時のヴィヴィッドな視聴者の記憶の中で生き続け、インターネットの(正確にはSNSの)上で不死者のように永遠にさまよう運命にあるようだ。

 これが本書の指摘する問題であるとするならば、おそらく「戦後」以来の物語的成熟の課題を解決することは、不死者を殺害する神話の英雄のごとき無理難題にも思えてならない。
 あえて個々の名前を出す気はないけれど、僕たちはすでに古今東西の虚構の傑作に囲まれて生きている。何度も同じタイトルのリメイクが実施され、シリーズ化し、終わったはずの物語が再び活を入れられている。世界はすでにアーカイブ化しているのだ。だから、その終わりなき追憶、という絶望からは一層のこと逃れることが難しいだろう。

 このことを自覚した上で物を書くことは、自己言及的で、メタフィクションめいている。嘘を嘘だとわかって書くことの虚しさは察して余りある。それでなお、再考し、取り組む必要があるのはわかるものの、そんな裸の王様を指差すことで何がどうなるとも言い難い。

 僕個人の考えとして、もしこの終わりなき戦いに何らかの楔を打つのであれば、この本の語る物だけでは圧倒的に足りない要素がある。
 それは、文化産業のことだ。

 20世紀は映像の世紀と言われている。しかしその映像が産み出したものの中で、現代において最も力を持っているのはディズニーとハリウッドだろう。本書の中でも、日本のアニメーションのルーツに手塚治虫とディズニーの話が触れられている。
 そのディズニーはと言えば、グリムやペローの御伽噺を子供向けに作り直すことから始めたのではなかったか。そして、グリムやペローは、中世以前の物語を当代の近代国家の成立にむけて編集していたのではなかったか。

 自己の確立≒成熟の問題を、もし現代のインターネット的文脈で捉え直すのであれば、それがなかった時代の生き方や思考方法に学んでみないと活路はひらけない。僕はそういう確信を得ている。
 少なくとも現代は、文化(想像力の成果物)が産業的に生み出されている構造の延長線上にある。それが劇的に変わるということも、おそらくない。だとすると、この終わらない戦いと、価値観の連鎖において、啓蒙や指摘ではもう何も生み出せなくなっている。

 であればこそ、僕はこのアイロニーを自覚した上で、何かを書かなければと思う。たとえ、それが駄作であったとしても。

 ▼以下、書誌情報▼

今回はAmazonのリンクですね。

早川書房の文庫版が入手しやすく、手軽で、内容も増補されているためオススメ。

読みやすさ:ほどほど(アニメや文学に対するある程度の理解がないと、固有名詞ばかりで頭が追いつかないことがある)
面白さ:面白い(各アニメ作家の作家論として、読み応えや社会考察的に読むことも可能で再読しても面白い)
入手しやすさ:まあまあ(基本的に大型書店にあるのと、Amazonなどで入手可能)

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