閉ボタン
後ろから足音がする
次第に近づいている
いつからだろうか
私は惨めな格好で逃げている
ここがどこだか
もうわからなくなってしまっている
ビルの森
どうやら遭難してしまったようだ
助けを求めても奴らに声は届かない
夜の都会はまあなんとも冷えている
私とそれ以外で大きな隔たりがあるようだ
私は一軒の雑居ビルに逃げ込んだ
ポストはさび付いており文字もかすれている
床や壁には黒くなったガム
このビルの死んだ細胞のようだ
そんなことを考えながら進むと
古びたエレベーターがある
チン
ちょうどエレベーターのドアが開いた
私は吸い込まれるように乗り込んだ
逃げ込んだという表現が正しい
もう足音もすぐそこまできていたが
なんとか助かった
呼吸もやっと整った
足はまだ少し震えている
ジンジンと痛む
そんなことにも気が付かないほど焦っていたのか
私は冷静になりふと気づいた
このエレベーターには閉ボタンしかない
階や開ボタンや緊急ボタンなんてのもない
ただ一つ目立つほどきれいな閉ボタンがある
私は逃げ切れた安心が徐々に薄まっていた
不安ではなくこのじわじわと迫りくるこの滲む感情は何か
「ここはどこか」
ここに入った時には何もわからなかったが
古びた雑居ビルだったはずだ
しばらくここで待っている
止まっている気配はない
少しずつ動いているような感覚はある
ただ上がったり下がったりしているのはわからない
ここは何階建てかか、地下室があるのか
まったくわからない
ただ恐怖やじわじわと迫りくる異常な気持ちも
過ぎていった
私はここにいるしかないのかという気持ちもあるが
なぜかここは心地がいい
もう数時間になるだろうか
時間の感覚さえよくわからない
なぜか生理現象もなくなったような気がする
正確に言えば身体と精神が分離している感覚に近い
身体はあれど何も感じない
大きな脳みその中に精神を誘拐された気分だ
もうずっとここで揺られているのが良い
私はそもそも何から追われていたのか
何から逃げていたのか
そもそもなぜ焦っていたのか
そもそも私はなぜ生きていたのか
トイレをしご飯を食べ布団で眠る
たまに小さな楽しみはあったりしたものの
ただ壊れていく機械のようだった
老いていく体に何も感じなくなっていく心
小さなころは何になりたかったのか忘れた
まあいい
私はこのエレベーターの中でただ永遠に揺られていくだけでいい
全てを支配されている感覚だ
何も考えずに
もうすべてを捨てていいんだ
チン
古い機械音が鳴り
ドアが開く
生ぬるい風に吹かれる
私は驚いてエレベーターの外を見渡す
どうやらここは
最初に乗り込んだ階と同じようだ
さっきまでと何も変わらない
ああ
ただ私を追っていたその全てを理解した
どこへでも行けるこの世界よりも
どこへ行くか支配されたこのエレベーターの方が
ずいぶんと気楽でいい
さようなら
今度こそはもうここには戻ってこない
とボタンを押した
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