無題0

対ヘーゲルはどれも、質を問わない動性、場に合わさない領域限定、この二つの限界を持つと解し、それらを真に克服した新しい時代を始めましょう

219-12-005
争いに関するスレへの投稿内容


例えば、搾取や差別への修正も、場の性質と扱いとが整合してないから正すという内容でないなら有害です。
その知性版と言える、
着目する差異は局面が決める(問われるべき事と捨象の合致)との次元設定の原則を欠いた、
二項対立への修正(解体)も含め、
問われるべき事を違えてるという齟齬の解消、問われた帰結(優劣等)の他への越境阻止、
これらの論点を越えた、対立構造への修正反応(平等への理解含む)はかえって有害であると捉えましょう。

そもそも、対ヘーゲルはニーチェ系もマルクス系もフレーゲ系も、質を問わない動性(形骸自由の弊害)、
場に合わさない(絶対主義的)領域限定、この二つの限界を持つと見るべきです。
抽象化と具体化条件割り出しの最大限追究を自由(振り回されなさ)の実質
(抽象と具体の行き来による確からしさの向上や確保としての、その拡張を歴史性)としていれば、つまり、
場に合わせた加工を受ける前後の関係正常化を論点としていれば生じない理解が根拠にされてますし、
後にそれら(未来偏重な具体化条件、分析的という概念)が否定された際の論拠が、
自由(有り様の規定のし方され方)の形骸化でなかった事は、現在にまで響いてると言えます。
静から動へという文脈で解体を捉える誤解も、静的か動的かの表層でなく、
いらぬ飛躍の除去された歴史性(内実が自由の実質の拡張)であるかどうかが論点との理解の欠如故です。

また、理解が対象に関する、抽象と具体の関係構造の像を確立できた感であるという事情から、
場の性質(問われるべき事)把握の精度にも関わる、上の最大限追究に加えて、
上の次元設定の原則(場での存在の原理)も欠いた結果が、揺り返しな固執的領域限定であり、
逆に、内外関係の正常化に向かわず、内外境界(与件である有限性)までをも無化しにいくという、
相対主義的事態を齎す発想(対カントや対プラトン含む)でもあるわけです。
(その発想は、管理者要件としても、加工不可避な認識作用における加工の適正化でも要請される、
場の本質を損なわないように形式や帰結を組み上げる能力とは逆向きです。)

なので、自由や平等の形骸化を一掃する内容持つ知性の獲得による、対ヘーゲルの時代の真の克服、
この一環として対立構造との関わり方の改善もあると捉え、
その内容持たない知性は評価しないという方向の、知性への評価基準変更でもって改善を目指しましょう。

ご支援の程よろしくお願い致します。