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特権的扱いの正当化合戦や、それに注ぎ込まれてる知性や倫理に、振り回されない人を増やし、それらの影響力を下げよう

2021-8-003

割り振り(場の表層)が場の固有性に即しているいないとは無関係(場の固有性に対する代替可能要素削ぎ落しが不全であれば事実上無関係)に、特権的扱いを求めてるケース
(近代性による強化もある、内在不問外在軽視な解決観の一種)に対し、

批判する側の観点も無関係なら、不当獲得構造を別のそれに差し替える(表層形の差異でもって満足する着せ替え的変遷)後押しでしかないので、
質的には変わらない、質の改善はない(特権的扱いの正当化合戦の様相)と見るべきでしょう。


また、近代的権利観(における財産権なり人権主権なりの持ち出され方)に疑問を呈してない時点で、

場の固有性に即した割り振り(損得や役回り)を、それがそれである限りそれにとっては引き受けざるを得ない性質にのみ応じる対内在対外在の方針を、
支持してる主体と支持してない主体の差異に鈍感な人や世界である事を意味する為、


属性や概念についても、代替不可能な内在事情外在事情にのみ応じているいないの内実差異が捨象されてる、
内実を検討しようとしても、抽象次元が低通用(林檎は数えられるけど蜜柑はできないレベル)なまま差異を捉える事になる、

つまり、属性や概念を持ち出す事が、恣意正当化の道具として持ち出していようといまいと、
各場の固有性に即した割り振りとは言えない獲得の機会創出を意味してる(通用領域の狭い解決センス)、そう推測されます。


したがって、政治経済に対する影響力を持つ前に、
場の代替不可能な固有性の発現(反映としての割り振り)保障の下で組み上がってる形式や帰結でないなら修正対象と見なす、
この内容を持つ行動原理が獲得されてない場合、

(表層反転で満足してしまう、つまり、本質からの乖離を乖離部分だけでなく丸ごと否定してしまう、先の解決観の下に語られる制度論がそうであるように、)

現状への肯定であれ否定であれ、不当獲得構造(それによって大した理由なく何らかを奪われる立ち位置)を呼び込むものでしかないのでしょう。

(解決反応がそのレベルに留まってしまう地平から脱する方法、地平の通用領域を広げる方向として、上の行動原理獲得が疑える。)



対象(自己や人以外も含む)を不当に扱わない態度なつもりでも、

最大限代替不可能化させた内在事情外在事情にしか応じない主体像との遠近でもって信頼するしないを決める
(より確からしいものが取って代わる運動性に対する具体化条件として、内在外在の十分に検討された形の固有性が選ばれてる場合の、成立達成現象しか良しとしない)、

この方針を持たない(無関係な尊重理論を採用してる)場合、

負わせる負わされるをやむ得なさの帰結に持ってく(不当獲得的側面を縮小させる)気がない有り様
(不当獲得部分まで含めて肯定したり丸ごと否定する、不当獲得に対する鈍感さや粗雑さ)への肯定を通して、

何かが不当に扱われる状況に加担してる形になると思います。


なので、対人含む対主体の既存理論は、
その主体像と対象との遠近について、扱いに反映させる局面と差異を捨象する局面(数えるとか都合との関係見るとか)とをできるだけ的確に分けるのに、
自身もその主体像に近づく必要がある、

この方向で修正されるべきもの(文理の分別不全の解消にもなる)と考えます。


例えば、救済観(自己や人以外含む)も、
ただ話を聞いてもらうだけで解消可能なレベルから、理解力(地平の通用領域)問題を先行させてないせいで存在論系の問題意識に振り回されてるレベルまで、

全体枠の拡張に伴う、各要素の再位置づけ枠組みに落とし込んでしまう
(割り振りへの妥当不当感が、各場の固有性に即した割り振りへの支持を越えては助けない方針に事実上近づくような、場の固有性の再位置づけ込み)として、


その再位置づけに関する開放性は、局面と着目無視の一致配慮
(場に合わせる合わさないの二択な解決反応という表層反転縛りな地平の外へと出るのに、つまり、場の代替不可能化された固有性に合わせる方向へと向かうのに、
必要な捨象処理能力や観点を与えてくれない既存の教育に欠けてた育成対象)が可能にすると捉え、

上の主体像(内実の確からしさ確保を、
できるできないの有限性凹凸や、通用が行き渡っているいないの見え方などの、表層形への問題意識に先立たせる態度)との遠近問題にしてしまいましょう。

ご支援の程よろしくお願い致します。