無題0

2019-11-010'
010の追記


もし余分な要素を取り除く事の、先例に当たる存在との関係が気になってるのであれば、
例えば、オッカムやソクラテスを原理追究的に捉え直した内容でもあると受け取ってもらえばと思います。

上の相補的両者は、無知の知の周知や問答の実践での論理飛躍の除去試みに対するそうした捉え直しであり、
かつ、プラトンやカントの示した分離(加工の不可避性)に対する、分離の克服でなく、分離を与件として、
加工を引き受けざるを得ない状態(現状での代替不可能な状態)にまで落とし込む事で良しとするという、
一種の解答でもあると考えてるので、プラトン時点から知的枠組みを、
さらには、倫理的枠組みや信仰の枠組みを組み直そう、といった感じの主張を現在持ってます。

特に、捨象(次元設定、局面で問われてる差異の取り出しに関わる)の話は、
近代以降の科学の実績が影響してるのか、知性観や理性観、論理観の主流に見られる、
同種の他との差異要素の捨象と共通要素の捨象の使い分けが、
局面の要請(問われるべき差異)と不一致(前者捨象の特化と後者捨象の埋没)、
これが齎してるいらぬ飛躍(オッカムの剃刀が持つ通用領域、網羅してる領域の外)を、
取り除くのに必要なものと考えます(優劣付けも、問われるべきを違えず、場を越境しない配慮があれば問題はないと思います)。



言語論的転回やその種の問題意識により得られた生活向上や取り除けた飛躍を肯定するにしても、
それは近代科学のケースと同じ感じです。
そもそも、欧米に必要なのは、ヘーゲル以降に限らず、
振り子的な解決センスを自身に認め、そこから脱する転回と思います。
つまり、場に合わさない(絶対)と合わせる(相対)の対比を見出したら、
場の本質にしか応じさせない(先の相補的両者から成る)方向に舵を切る方針です。

しかし、もしかしたら彼らには、絶対性(場に合わさない、分断的)の感覚と結び付いた自由観や個人観、
宗教自体や宗教と人との位置関係の歴史事情、この両者の結び付き故にその転回が難しいのかもしれません。
だとしても、欧米以外の者が彼らの振り子的解決センスに付き合う必然はないわけで、
彼ら(世界の現主導者)の解決枠組みが持つ偏りを否定するという主題、それが置かれる場、
両者の関係正常化(資質と環境から代替不可能な性質を取出し引き受けた状態を場とする)の帰結としての、
例えば、余裕や実力の不足からやむを得ずの、枠組みの受け入れに我々は限るべきですし、
そこに見られる対応の構造に独立性、自由性の実質を見るべきでしょう。
(パラダイムや常識、概念枠や通念でも話は同じと思います。)

また、対言語について言えば、まず、
認識も(便宜的に言語準拠で言うと)主語の特定局面であれ述語化局面であれ、
対象が加工される場(通用領域の広さへの指向、問われるべき事、両者の総合)を用意してるだけとも言え、
我々には、場に置かれる事で限定(加工、具体化)される前後についての、
関係正常化(してるほど善)の問題があるだけ、というのが現状の理解なので、
プラトンアリストテレスやカントの、言語や論理への解釈や問題意識が齎した枠組みには組してない形です。

例えば、主観への、同種の他との差異要素の捨象と共通要素の捨象を、局面に合わせて使い分けれてない、
感情(内在場の産物)不問のまま(局面の固有性に合わせる作用とは言えない類の)理性との間に上下見る、
感情の無加工表出を、それが許される局面かそう勘違いしたと捉えない(内外の性質統合の現象観でない)、
そうした類する誤解(特に、自由の実質に対する不理解)の中に、分析的の概念もあるように疑うので、
その概念は、知的枠組みを先の相補的両者ベースで再構築する際の修正対象に当たると想像します。

言語が認識に、洗練を齎す代わりに偏りも齎す点に関しては、
先の資本主義と共産主義における二つの原因(自由の形骸系からも、平等の形骸系からも生じる)と、
同じ構造を見る事で、否定すべき偏りを見出す感じになるかと大まかには想像します。
場(主体や市場)における市場(反映される個々事情のフェア化が課題)に相当するのが、
コミュニケーション取り込んだ大小の問題解決空間になるとか、
歴史性(抽象と具体の行き来)による確からしさの向上と確保を見る対象として、言葉そのものに加え、
社会や文化(問題解決空間の、社会や自然環境を具体化条件とする偏り)にも見るとか、
とりあえずはそんなイメージです。
向上は仮説と実証の行き来、確保は文脈に乗る前後の行き来(使われる使われないや使われ方のフィードバックによる、言葉の意味合いやニュアンスの変遷)がその例です。

ご支援の程よろしくお願い致します。