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小学期の課題の取り残しが、文系空間における知性や倫理の機能不全を、その結果である世界の現有り様を、齎してるのでないか、という話(005の変形版)

2022-11-006

例えば、対文章において、局面次第や主体事情次第なものをその次第性無視して特定の有り様強いてる形(いらぬ飛躍な一般化)、
無視してなくても表層の汚れを拭っただけのものを受容に値するもの扱いしてる形(実態主義)、

表面をなめす洗練効果だけでは取れない(表面的な成立を優先する事によってむしろ埋没され得る)
こうした文系的ないらぬ飛躍を見出す能力が機能不全化してる供給者需給者の間でも、文章は需給成立するわけですが、


文系空間は、内実にいらぬ飛躍のある言動(特に、都合を受容に値する状態にまで持っていってない言動)が影響力を持つ事態を
(内政外政に関するこの種の状況だけ想像してみても、深刻な問題と言えるだろうに)許してきたし、

文系教育は、上の例の類(内実の確からしさの観点では価値のないものが、価値のあるもの扱いされる事態)を減らす効果を持たない以上、

内実にいらぬ飛躍のあるものを受容しない(局面事情の要請などで、やむを得なさを補填してから受容する)能力なり態度
(自他が受容に値する状態にまで持っていってない類の自身や誰かの都合を根拠とする獲得を、
別の言い方するなら、代替不可能な内外事情にのみ応じる主体像と整合的でない獲得を避ける生、
自身に対するいらぬ特化の阻止を意味するそれも含む)なりの、

養成という点では一切機能してないと言えます
(量との関わり方を、質を犠牲にする程度を現実が成り立つ範囲で最小にするよう、促す働きの不在が言える)。


この文系空間における知性や倫理の機能不全(帰属関係を受容に値する状態にまで持ってく働きの不全)や、
その結果である世界の現有り様の原因を、小学期の課題の取り残しに見出し、以下を踏まえて修正を図りましょう。



自身の主観に対してをはじめ個々事情の捨象が、小学期での理系の最大の課題(算数の文章問題などで必須)でしょうが、
大騒ぎや見て見ぬ振りという振り回され状態に対する、状況的に過不足のない反応(への受容に値するもの扱い)による抑制を、その文系版と見なすとして、

それらの抽象像(したがって、小学期の最大の課題)である、局面と着目無視との合致処理
(具体化精度の確保による過大反応過小反応の抑制効果から、自己正当化欲求含めた、立場の非対等性に対する肥大化とフラット化の同時否定が期待できるそれ)を義務教育の対象に組み入れる事は、


例えば、お金を出す立場、仕事を振る立場といった非対等性が肥大化する事で個別の関係性はもちろん、経済に齎される歪みに対する抑制を、
早期から可能にする、立場の非対等性の肥大化問題への対策の本筋と思われ、エリートの肥大化(利権構造の保全圧力込み)問題
(フラット化という反動反発による対応は、先例が示すように無理筋)についても同じ事が言えると考えます。


ここで、上で言う合致処理(局面と齟齬のない捨象)は、理系的局面と文系的局面との間の捨象対象真逆問題への対応を含む(同種の他との共通要素の捨象アプローチが可能になる)為、

上の肥大化問題の例は、組み入れによって、


個別性が根拠となる局面で、個別性の疑似化を許してしまっていても(同種の他との共通要素の捨象にさらされた内在性質や外在性質、
あるいは、それらの引き受けを内容とする、抽象化具体化の交互反復の結果に構築された固有性、

言わば、雨が降ろうが槍が降ろうが持たざるを得ないという意味で普遍通用的な、これら存在と引き換えの要素が根拠として持ち出されてるケースと、そうでないケースとが混同されていても、)、

別の言い方するなら、同種の他との共通要素捨象を用いた抽象化具体化の不十分さへの鈍感さ故に、
文系的思考や人生等の文系的展開(同抽象化具体化の交互反復)に対し内実の確からしさを持たせる
(つまり、形骸物をそうでないかのように扱わせる搾取事態を阻止する)上で必要な、通用が行き渡っているいないの判断感覚が機能不全でも、


知的上層になれてしまうし、修正しなくても(通用してないものをしてると見なしたり、逆に矮小化したりを繰り返し、
通用してない部分を潰す機会を逸する生のまま、いらぬ飛躍の保存の許す知性や倫理のままでも)やっていける既存の文系空間を刷新する一環とも見なせます。



その刷新は、2+3を10とか100とか言い張る、
存在と引き換えの要素以外も込みで根拠にする(疑似化部分も内在性質や外在性質に帰属してると言い張って、仕方ないとは言えない負わされるに値しない部分の、仕方ないもの扱いを強いる搾取)、

これらいらぬ飛躍の同列化を可能にするので、


自由とは、対内在や対外在での、代替不可能な要素以外込みの受容も代替不可能な要素込みの拒絶も囚われてると見なし、内在不問外在軽視もその反転も否定した、代替不可能な内外事情にのみ応じる主体像、

平等とは、持つ持たない、できるできないがその主体像の反映である事を求める有り様、
つまり、その主体像を最善(理想を割り引く程度を現実が成り立つ範囲で最小にする具体化条件)とし、
課されてる条件の違いによらずどの主体に対しても、最善からの乖離を非難対象としつつ、乖離解消以上のものは求めない方針(課されてる時空条件の差異におけるこの方針としての対歴史込み)、

この自由観平等観(着目無視についての具体化精度の確保であり、その振り回されなさから自由平等を導く、上の合致処理は、
捨象処理の事情でこの自由観平等観の要件であるという、認識と実存の間の関係を疑えると共に、
内実不問が搾取の原因と認めるならば、具体化精度の確保こそが対搾取であり、奪い合いからの脱却であると疑える)の実践をも可能にするはずです。


その自由観は内在場と外在場での、場の疑似でない固有性の全面展開な整合への支持とも言い換えられる為、

個人と国の関係(個人の外在場と国の内在場の、加えて、国の外在場と国際社会の内在場の同一視として捉え直せる)が、闘争関係枠組みへと矮小化されるのを、
例えば、感情と理性の関係が上下論や対立構図に落とし込まれるのを、場での割り振りに内実の確からしさを持たせる試みの、内面世界や局面における展開、という抽象具体関係構造をもって退けるのと同じ形で防ぎ、

その種の整合なり組み上げなりを(具体化精度の確保が優先されてる類の割り振りを)、
プレーヤー立場と管理者立場とが協力(他方への肯定否定や要求の根拠をこの点に限定する事で、
いらぬ闘争を抑え、均衡が生まれさえすれば良い的な、バランスに内実の確からしさ差を見ない権力均衡と決別)して、達成しにいく世界に道を開くものでもあると考えます。

ご支援の程よろしくお願い致します。