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文系知性の機能不全(ある種のスルー認知)への対策でもある、既存パラダイムに頼らずに済む実力を得る為の、知性と倫理を個々具体と見た抽象次元へのアプローチについて

2020-10-005

社会が持ってる体系に対して批判し修正迫るにせよ、保持を図るにせよ、
体系化についての確からしい原理が不在なままなら、分捕りの側面(その原理の下で立ち上がってる体系から乖離してる部分)を抱えざる得ないように思います。

また、個人が実力不十分なのに自分の好きにさせてもらいたがったり、こうすべきという与えられた像(常識なりマニュアルなり)と現実の複雑さとの間の齟齬に対し実力や余裕への視線なしに蓋をしたり

(マニュアル対応に留まったり留まらせたりが、実力高める運動性の特に理由ない薄弱さの下で生じてる的パターンに、人類の知性も近代パラダイム盲従の形で陥ってる)が見られるのも、

管理者実力(このケースでの場は主に局面や内面)への不理解を原因とする構造(運営の妥当不当や規制の増減を見誤る事情)は前者と同じだとして、

前者では、場の本質を損なわないように形式や帰結が組み上がるよう、管理者も被管理者(国際社会においては国)もコミットする像
(例えば、大会運営も選手も、問われてる差異をそれぞれの立場から的確に浮かび上がらせる存在と見る)が体系化の原理(その不在により左派右派の権益対立へと話を矮小化させてるもの)に相当すると想像され、

後者は、対応体系として持ってる抽象具体関係構造が現実の複雑さに通用してる程度(通用領域)を意味するだろう実力が、
仮説を実証しフィードバックする抽象具体行き来の精度の低さによって向上上限を抑制される事のないよう必要となる、実証結果に当たるものに対して大した理由なく閉じない姿勢を押さえずに、
判断規制への肯定否定が判断されてる話と想像します。



論理飛躍がそうであるように、展開の帰結が展開の精度を軽視
(ある処理枠組みを脳にインストールすれば成立達成が容易になるとして、そのインストールの根拠吟味と重なる、己の資質や環境の引き受け方の、表層的要素込みで引き受けたり丸々拒んだりな単純さ含む)したものなら、
利得や不利益回避は不当なもの(分捕りや泣き寝入り強いの発生)と言えるでしょうが、

歴史性を抽象と具体の行き来(仮説と実証の間なり、文脈に乗る前後なり)と見ると、その展開精度は抽象化と具体化条件割り出しの精度と思われ、

つまるところ、不当な利益得てる扱いを受けるだけの根拠はないと言える為には、そこの精度最大化に当たる、局面と着目無視の齟齬(捨象対象への選定偏向や閉じてる姿勢)の解消が必要だろうに、

世界は未だ、ヘーゲルの乗り越え試みに見られたような、具体抽象上下論(当然、抽象化や具体化の精度は論点でない)から外には出てない

(出るには内在の性質と外在の性質が合わさって現象となり、その確からしさは両性質の代替不可能程度によるとの現象観が必要だろうけれど、近代人センスの自由観や個人観とは整合的でない)と言えるだろうし、

そうした表層反転な解決センスは、近代パラダイム(硬化された内実不問)による判断規制の現れとも思われるので、
絶対性から相対性へといった表層形が代わるだけに過ぎず、ドーピング選手のレース参加強要的な側面抱えてる点は何ら変わらないのに疑問持たなかったり、

個々具体から一旦抽象次元に移行し、引き受けざるを得ない類の具体化条件(例えば、置かれてる時空の代替不可能な性質)を付し直す作業が、理系域と比して機能不全も同然、
つまり、確からしい規準(通用が行き渡ってる状態)無しで肯定否定してたりも、

先の大した理由なく閉じない姿勢を実質押さえてない弊害と疑えるように思います。



恐らく、その姿勢を実質としても押さえる(例えば、現世界標準な知性や倫理では、つまり、それらを未だ縛ってる近代パラダイムでは通用してない領域と向き合うなど)には、

通用してない領域の発見とそこにも通用する形への原理の修正を、できるだけ阻害しないような(伴う不利益に対する過剰反応を抑えるような)反応方針を前提に据えてる必要が、

つまり、大騒ぎも見て見ぬ振りも抑えるべく、局面と着目無視とを乖離させてない振る舞いに徹する姿勢を、情報獲得に先立たせ、獲得時も保障できる
(表層的要素に振り回されるセンスのまま知識獲得に励み、知識が表層的要素に振り回されてる内容であってもスルーするか、修正形について考え巡らせたところで期待できない事態も抑えられてる)必要があるでしょうし、

それ(不当な利益を得てる扱いを受けるだけの根拠がない状態へと、主体を持ってく能力でもある)が、ひいては、自力での行動原理の通用性向上最大化が、
期待できないこれまでの教育を、体系の不備として修正する(特に、局面把握なり主観なり、同種の他との共通要素捨象の程度が確からしさ差に当たるケースへのケアを取り込む)必要もあるでしょう。



なので、その反応方針の主な具体形と思われる以下を含んだ言わば、フェア基底パッケージとでも呼べるものに、件の姿勢押さえてる状態も含めつつ、
そのパッケージ不在の弊害として先に見たような(文系)知性の機能不全

(自覚の有無によらず権益保持先行で、つまり、集団へのアンフェア主体混入を問題視しない先述のスルー認知によって属性への責任転嫁という原因帰属誤認や表層的整合追求が許されてる状態で、属性対立を仕立て上げたり、
理解の精度向上を実質怠ったままこれ以上無理とかまだいけるとの判断を自他に押し付けたり)もあるし、

(ドーピングによる優勝に対しても、先述のスルー認知から実質の有無を看過し、通用が行き渡ってる扱いするような倫理感覚の持ち主は、通用してるしてない判定に難がある以上、
その実狭い通用領域に置かれてる状態を自由と見なして過ごしてたり求めてる可能性が高い等に加え、

知性領域でも同様の、さらには、実証結果に当たるものに対して閉じてる、つまり、実力向上にいらぬ制約生じてる疑いが持たれておかしくないのに、
フェアアンフェアへの扱い差を捨象してる既存権利観に疑問持たないなど、近代パラダイム盲従者の倫理感覚はその類と言えるわけであって、

倫理と知性を個々具体と見た、抽象次元において)それを備える事により機能不全をやむ得ない類にまで抑えられる
(引き受ける必要ない要素から解放し、そのスリム化により有限者として無限性を割り引く程度を下げさせる働きが高まる)、
そう捉えるべきでないかと考えます。



自己救済と他者救済を分ける手前、それらを個々具体と見た時の抽象次元において、
フェア(場の本質に即した割り振りへの支持)を越えては助けない救済方針を採る(それが場次第で、自己救済として現れたり、他者救済として現れるだけ)。

自我や文化を問題解決の、できるだけ代替不可能化させてから負うべき、スタイル(身体や社会や自然環境は解決の対象)と捉え直した上で、
場の本質に即してる状態感を損なわないように形にする、という内容へと対問題を落とし込む。

次元設定自在性としての人間性を、場の本質と次元設定(着目無視)との齟齬縮減に注ぎ込んでる(両者が合致してるほど、その場その場が決めるところの表層的要素に振り回されてない)という意味での、
量的自由の質的自由への変換を、人間性の形骸性(持ち腐れ状態なのにそうでないかのように振舞う事態)低減と位置づける。

ご支援の程よろしくお願い致します。