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3699文字、変化不変化自体への着目、自己起源な選択という自由像、これらは有害でないかという話(人間形式レベルの疎外的事態にも触れて)

2023-8-002

これまでの有り様を保全する態度が有害なのは、イノベーションなりパラダイム刷新なりに対し消極的になる(ひいては、後手に回る)からというよりも、
歴史性(確からしさ向上も、単なる変遷も)を抽象化具体化の交互反復として見た時の抽象化具体化の十分不十分を論点とし

(具体化精度を問う点、言い換えると、至るに値する表層形を精度問題無視してまで目指さない、むしろ、その種の表層形を想定せず、
無限性をより確からしいものが取って代わる運動性と解せば、具体化精度を問わずにカバー領域広げる類の確からしさ獲得から、

したがって、抽象次元は改悪となる量文脈から、問うが故に改善となる質文脈への変換の形で無限性を取り込んでる点をもって、
この意味では量文脈なヘーゲル系を、量的普遍性に留まるカント系と同様に、否定してる形)、


十分であれば、表層形に修正余地はないとして変化の大小によらず肯定する、という内実先行の観点、
さらには、そこの交互反復は前提で、我々がそこの交互反復に対して持ってる修正余地は抽象化具体化の精度最大化状態からの乖離部分だけ、

という世界観(この観点において疑似問題や疑似解決となるものからの解放)を、
変化不変化という表層形への着目(つまり、変化への積極性にも同じ問題が言える)をもって埋没させるからでないかと思います。



そして、同じ構造が自由概念にも言えて、自己起源な選択という像が論点の取り違えを引き起こしてると疑います。

選択は採用した観点の下で通用の行き渡ってるものを選抜してるだけ(もちろん、選択肢の量を追うか質を追うかも、覚える感情も、明晰曖昧込みで表層次元の硬軟も選抜対象)、
通用領域の広狭と確からしさとの相関は認識の前提(否定反応も観点設定の確からしさはともかく、受容に値する条件を満たしてない、
つまり、通用が行き渡ってないとの判断であると考えれば、この相関から逃れられない)、

生は置かれてる場に自身を通用させ続けるという存在条件を踏まえた問題解決、
無意識と意識は注力前問題解決と注力的問題解決の関係なので、選択結果を紡いでる点は前提(質が問われてない量文脈の産物が先にある)であり、

我々が生に対して持ってる修正余地は、次元設定自在性という人間性を生かし、通用領域の広狭と確からしさとの相関を、観点設定自体に対しても適用して得られる選抜精度向上余地
(この適用による内実確からしさ向上は、次元設定自在性にむしろ振り回されてるという、人間形式レベルの疎外的事態を抑える処理でもある)なのに、


この適用を阻害抑えた形で可能にする、代替不可能な内外事情にしか応じない実存
(内外境界設定から恣意性を取り除き、有限の与件性レベルの強い受容せざる得なさに、自身という現象を帰属させにいく内容の自己帰属の論点化、

および、外在場の疑似でない固有性が損なわれてない整合は受容し、損なわれてる整合、この種の秩序には与しないというだけでなく、拒絶に際する具体的反応の具体化条件をこの実存とする、
さらには、この実存と同じ内容の主体像の、何らかの社会なり需給事情なりにおける構成割合が低い程、そうした場の疑似でない固有性は損なわれてると見なす対秩序)

の採用と整合しない、内在不問外在軽視な通念的自由観における自己帰属の論点化によって選抜精度向上が埋没


(外在事情尊重を原理レベルで持たないこの自由像の採用は、文脈取り違えの最小化に至れない為、文系事象に対する理解力の上限が隠されてる形になるのと同じで、
同種の他との共通要素捨象用いた抽象化具体化が不十分な状態という文系的問題の抽象像から、
自己、他者、他種、無生物、概念等に生じてる問題を、局面事情に即した形で取り出すという、局面の下の平等も埋没)する構造を見ましょう。



注1

出産の前込みで赤ちゃんの何をどのように育てるかという、種の戦略と表裏である性別システムに関して、人間の場合、
赤ちゃんとの直接的立場性(確定的自己価値と世界有り様とのズレ)に由来する不安定、間接的立場性(不確定的自己価値)に由来する不安定、これら不可避な不安定が言えて、

問題はここが肥大化する程、人間形式レベルの疎外的事態が強まった状態の現れを含むものとして、不安定を解消する反応が展開されてしまう
(肥大の結果含めて、自分が自分である限り仕方ない的な修正余地ないものという位置づけ付してるケースが特に問題)という構造でしょう。


つまり、人間形式に振り回されないよう、フェアを越えた自己尊重部分を捨象し、過剰な自己救済を防ぐ対処を付随させる必要がある為、

この種の疎外的事態の抑制は、局面々々で問われてる事を取り違える(取り違えがなければフェア志向に等しく、
取り違えてるなら自己についての特化の過不足を許容してるに等しい)せいで、
自己の具体化精度が低く、自己の個別性を仮説として見た時の、精度の低い実験結果をもって仮説を修正する改悪パターンを繰り返してるのに、改善されてるつもり的に振る舞う問題の一種として、



事態を捉え直した上で、局面と着目無視との合致が既存の権威を超えて評価される社会
(余裕があってなお量の確保を先行させ成立の内実確からしさを問わない、あるいは、この内容に市場なり民主制なりを留まらせる事に疑問を持たないなど、

局面との不一致が確認された時点で、選択肢が豊富でも場で問われてる差異を踏まえた選抜に失敗する、
つまり、権威者であろうと文系事象の理解力にいらぬ限界が生じてると見なされる社会)へと持ってく試みにまとめてしまえる、そう期待できように思います。



注2

理想現実関係も抽象化具体化関係であり、理想ポジションに真善美を置けるとすると、
同種の他との共通要素捨象用いた抽象化具体化が不十分な状態という文系的問題の抽象像には、

真善美との間に生じてる距離を、代替不可能な内外事情にしか応じない実存(理想ポジションに負わせる割り引かれを、有限の与件性レベルの強い受容せざる得なさに帰属させてる為、
真善美への尊重が形骸でないと言える現実)を生きてる結果に生じてる距離かどうかと、

関係なく肯定してる(場に合わせる処理に関して場の性質の疑似化を無視する)相対主義系も、関係なく否定してる(場に合わさない)絶対主義系も、
含まれてる事(認識場からして加工の現場なわけで、場に合わせた加工に関する論点ズレへの疑似問題扱いが含まれてる事)になります。


(下で言う偽装に対する糾弾への矮小化という、受容条件を確からしくする試みへの阻害と言える、
したがって、獲得喪失をこの実存と整合させ、内実確からしさ持たせるいらぬ特化忌避の推奨を通して、
奪い合い世界なり、できないや失敗が安易に肯定否定される表層形着目世界なりを修正する試みへの阻害と言えるそれであれ、

この実存の下で生じてるのなら、疑似でない局面事情に合わせた加工ですが、そうでないのなら、局面と無関係に地位を保全する特化、
ひいては、いらぬ文脈取り違えによる理解力低下の常態化まで疑えてしまうように思います。)


また、局面の性質をもって具体化する場合、局面の個別性を取り出すに際して同種の他との共通要素捨象にさらす(個別性から疑似化部分を取り除く事で場の尊重の形骸化を防ぎ、

内在性質外在性質の統合体である現象を、有限の与件性、つまりは、内外境界発生の与件性という強い受容せざるを得なさに帰属させる為の必要条件であるところの、
応じる外在性質の代替不可能化に等しい意味での、場が価値を決めてる状況に持ってく)必要がありますし、


同種の他との共通要素捨象が必要なのか、差異要素捨象が必要なのかを決めてるのは局面の性質だと考えると、
局面の下の平等には(弱い受容せざる得なさを強いと偽装する為に知性倫理美意識を用いてるも同然な事態との絶縁にも)、
局面と着目無視との合致、同種の他との共通要素捨象、この両者の相補関係が前提として要請されてると疑えるように思います。



注3

概念の有り様に含まれる、同種の他との共通要素捨象用いた抽象化具体化の不十分さを、スルーするしないも局面事情次第となるのが局面の下の平等ですが、

主語を切り出してくる、主語から述語を切り出してくる、後者を修飾にも拡張しつつこの両試みから意味を切り出してくる、
これらに抽象化具体化の不十分さがあるなら修正したり、修正像からの乖離具合踏まえて位置付けたりするのを、

内在事情外在事情をもって具体化する(自我を内在的問題解決スタイルとした時の外在的問題解決スタイルだろう文化の観点からこの具体化の精度を問う場合は、
社会の性質とその社会が置かれてる時空性の性質が代替不可能的であるほど具体化精度は高い、との話になると想像します)、


これ以上の意味付けを言語処理に対し与えてしまう事態も、対問題に関する抽象具体関係構造における具体化条件が局面の下の平等であるなど、機能してれば生じないと期待できますし、
注1で言う試みによって、その過剰意味付けを支持する(したがって、過剰性への糾弾を矮小化し得る)権威の影響力も抑えられるはずです。

ご支援の程よろしくお願い致します。