無題0

主体性を望む教育者に比べ、いらぬ特化を避ける事を望む教育者は圧倒的に少ないだろうけれど、後者にこそマクロ的にもミクロ的にも教育の真の意義がある

2019-7-004
日本人と宗教の関係に関するスレと、
SNSで政治を語る事に関するスレに投稿した内容を一部含んでます。


教育において主体性の重要性は言われても、いらぬ特化を避ける事の重要性は言われてきませんでした。
いらぬ特化を避ける処理を付随させてる主体性とさせてない主体性の区別がされてこなかったわけです。
しかし、その処理を望む事にこそ、
教育の本質(マクロ的にもミクロ的にも真の意義)があると捉えるべきです。

まず、いらぬ特化(大した根拠ない死角産出、通用領域限定)を避ける処理は、
知性の実質である、いらぬ飛躍の除去(無知の知も含む)と同等であり、
同じ現象の別角度、かつ相補的である次の二つ(能力獲得を資質と環境の関係から見る場合は後者)、
その場その場の代替不可能な固有性と着目無視(次元設定)の合致配慮(倫理の実質)、
抽象化と具体化条件割り出しの最大限追究(理解力の実質)から成ると捉えましょう。

次に、競走に際して、ドーピング選手の混入等で、問われてる差異の取り出しに失敗してるなら、
運営は修正対象(責任を果たせてない)なわけで、
その最大限の修正努力と運営の持つ権限の正当性は対関係にあり、
競走に際するドーピングも、主張選抜に際する不当主張も、実験に際する不正行為も、
妥当帰結を導く上での阻害要因である点は同じだと考えると、
場の本質を損なわないように形式や帰結を組み上げる能力や視点を
それらの基盤となる先の合致配慮と共に育成する教育の不在が、
国レベルでも個人レベルでも、自覚がないだけで重大な事態である事は明らかです。

制度構築や政策立案や予算配分や主張選抜について、評価する(的確な修正圧力を齎す)側される側、
国はどちらも育成してない形ですし、
フェア(場の本質に即した損得や着目無視への支持)主体のみが参加可能なプラットフォームの実現を、
怠ってる形である以上、ドーピング選手の混入阻止を怠ってるのと同じ管理不全です。

そもそも、世界に健全な政治が存在してない、
つまり、人類が真っ当な管理者ポジションを持ち得てない(その弊害に苦しんでる)のも理由は同じです。
健全化のネックとなってる次の三つ、近代以来の権利観(人権主権財産権へのその影響)、
アンフェア除外を付帯させてない寛容への理念扱い(平和や人間性保障のイメージへのその影響)、
相対的な善悪差(例えば、第二次世界大戦時のそれ)への相対性を超えた扱い、それらも結局のところ、
フェアアンフェアに扱いの差を付けない(付けなくて良いポジションのある)枠組みの、
存在(自己を悪人でないと見てる人達もその排除に何ら貢献してない)に由来してると言え、
政治が自分で自分の首を絞めてる形です。

政治において主体性や能動性を国民に求めても、上の枠組みの排除は求めてない、
この事態(ドーピング選手にも参加権を認める的プラットフォーム)に、冒頭の無区別と同じ構造を見、
上の枠組みを保存したままの言動は、悪意の有無によらず政治にとって有害、
フェア尊重の教育が課されてない民主主義は、いらぬ限界を負ってると解し、
国にその不備(平和主義や基本的人権の尊重が、国民主権を不全化させる内容な点含む)を認めてもらい、
その枠組みの排除と同等である、妥当帰結を導く上での阻害要因の混入を防ぐ機構の、社会や個人への実装、
つまり、先の不在の解消(知性の実質を先のように捉えれば知性教育のパッケージで可能)を求めましょう。

(ご都合主義者による、対象との関係正常化の自他への推奨、この形骸性も、
知性の構成要素でもあり教育すべき、フェア尊重を伴わせる事で修正可能と考えれば、
宗教や文化がいらぬリスクを抱えてたり、政治領域に歪みを齎す事態は、
宗教や文化に倫理の実質を先立たせる事を、政治が怠ってる結果と見るべきです。)

ミクロレベルで言えば、内面世界や個々が直面する局面を場と見た管理能力や管理責任の涵養は当然として、
先の合致配慮の下に、できるできないへの敏感さ(バイアス)を置く事は、
盲信と反動反発(反抗期から反体制まで)の二択状況からの脱却を意味しますし、
先の合致配慮なくして、同種の他との差異要素の捨象と共通要素の捨象を、
局面に合わせて使い分ける事をせず、前者特化型である欧米的知性からの脱却、
例えば、局面の性質差異を前者捨象する理性観や平等観、それら有害パラダイムからの脱却は無理です。

(理解とは対象に関する、抽象と具体の関係構造を把握できた感、確立できた感でしかないと考えると、
その感覚の形骸性を縮減する先の最大限追究は、
我々認識主体にとって第一義的な重要性を持つと思われますし、
場の性質把握の確からしさを担保してくるものですが、
自由観や実在非実在観、真偽観や論理観について、
既存のそれらを先の最大限追究と整合的なものにまで持っていくには、
内在の性質と外在の性質が合わさって現象になるという、内外価値対等な現象観が、
別途必要になると思われます。)

マクロ的にもミクロ的にも根本から変えるべく、
主体性や生きる力等の理念、学歴やPISA等の基準よりも上位に、
いらぬ特化を避ける処理(いらぬ飛躍の除去)を置く教育者(親含む)を求めていきましょう。

ご支援の程よろしくお願い致します。