無題0

根拠不十分性への寛容さが、主張機会の悪用や感情の不問根拠化を社会に齎してますが、その原因を、科学的思考教育の有無などよりも深い部分に見ましょう

2019-6-7
科学の限界に関するスレ(哲学ニュースさん)に投稿した内容


着目無視の枠組みは無数にあり得て、
科学もその一つに過ぎないと見るべきと思います。


小学生でも、算数の文章問題を解く際は、
必要な着目無視の枠組みを用意するわけで、

Aにしか勝てないよりBにも勝てる方が強いといった、
通用領域の広狭と確からしさとの相関を、

種や社会や個人が選択した枠組みの下に見てるだけの存在なのにもかかわらず、

枠組みの確からしさに対して鈍感であったせいで、

我々はいらぬ問題を生んできたのだと思います。



局面(場の固有性)に合った形に着目無視枠組みを設定できないと、

手持ち根拠の通用領域が上限まで行き渡っているいないについて、
判断を誤りますし、

ある枠組みの下で導かれたものを、
場を越境して押し付けかねません。


根拠不十分性への不誠実な態度が許されてる社会の現状も、
科学的思考の有無以前の問題と捉え、

また、
同種の他との差異要素の捨象と共通要素の捨象を、
局面に合わせて使い分ける能力の欠如による、

行き過ぎた合理化等の、科学への過大過小扱いを防ぐ為にも、


(内面世界や自国社会や国際社会も、無数にある局面も場と見た上で、)
場の本質を損なわないように、
形式や帰結を組み上げる能力(場の管理者要件)の獲得を、

科学的思考や生きる力等の教育理念に先立たせましょう。



さらに、科学自体について、
次の全体像の下に位置付け(把握)し直しましょう。


有と無に差異がある時点で有限性(外部の存在、内外境界の存在)は根本。

真理含め、何ら加工されてない対象も、
置かれる場(着目無視の枠組み含む)による加工を受けた形(内外合成)でしか現象せず、
場の代替不可能な固有性に合わせた加工のみから成る現象は不純物がない、

つまり、
抽象化と具体化条件割り出しの最大限追究が現象の確からしさを担保する。

理解現象(対象に関する、抽象と具体の関係構造を把握できた、確立できた感でしかない)でも、
その最大限追究が理解力の実質に当たり、

先の前者捨象としてのその追究を、科学は担ってきただけ。

ご支援の程よろしくお願い致します。