無題0

日本の民主主義に問題があるというより、近代の延長世界から脱しない限り、民主主義が妥当帰結を導くものとして機能するのは無理と考えるべき

2019-4-004 日本の民主主義は破綻してるか的な論題に関して

アンフェア主体を助ける形になるかどうか、
なるとして条件上の最小に抑えてるかどうかについて鈍感な人が、

政治や経済に影響力を持つほど、
アンフェアの被害を、不当な扱いという現象を、減らす事は難しくなるでしょうが、

民主主義自体がこれを解決してくれるわけではありません。

その場その場の本質に即した扱い(着目無視や損得割り振り)への支持をフェアと見た上で、
フェアを越えては助けない、助かろうとしない、

この理念を権利よりも上位の理念として別途用意する必要があるのだと思います。


民主制も市場も、場の性質をより正確に浮かび上がらせ(それに即させ)る事はできても、

浮かび上がらせた性質が、引き受けざるを得ない代替不可能なものかどうかを何ら保証しません。

日本に限らず、未だそこ(十分とは言えない根拠で対象を庇ったり拒絶する事態)が解決されない主因は、
実情主義という近代の様式に世界が今なおあるからでしょう。


ドーピング選手がレースに参加してるならしてるなりの帰結を導く、そのパラダイムから脱却し、

民主主義を、妥当帰結を導くものとして機能させたいなら、
(させたくないとしたら、分捕りの道具として民主主義を利用、つまり、悪用してる事に他なりません)

実情に即すると場の本質に即するとの間の乖離を問題視し、
後者でない損得に対してアンフェア扱いする、かつ、場(内面世界や自国社会等)の管理者に責任を問う、
そんな主体を増やす働きをまず機能させ、

ひいては、近代の延長であるこれまでとの決別を果たす必要があると考えます。


その際、アンフェア上等な主体の転向に加え、

善や正義の側かのように己を位置付け、かつ先の意味でのフェアとは言えない主体における、
アンフェアをなくすのでなく、表層形を変えて保存してるレベルで満足してる現有り様の変更も必須となります。

例えば、後者の彼らに、

愛や平和の具現も、人権や多様性の保障も、
先の乖離を抱える既存解釈の下に理念がある限り、功罪不可避である点を認め、
場の本質に即した扱いを支持する内容へと、理念の解釈を修正する事で罪側面を削るよう、
求めていく働きが必要なわけです。


局面の代替不可能な固有性に即した着目無視の帰結であっても、不当格差や差別と見なす主体が、
世界中に数多く確認される、というケースで言うなら、

平等において差異性の捨象は形式に過ぎない(内実の妥当性は保証されない)と認め、
先の支持はもちろん、ある場における優劣等を他の場に越境させない配慮に、あるべき平等を見る、
そういう人を増やしていく必要があるわけです。


ここで、競走において正確な結果を導くには、
問われるべき事(場の本質)が損なわれないように形式(ルール等)を組み上げる必要があり、

選択肢を選ぶ作業も、それと構造は同じであると認めるなら、

より確からしいものを厳格に選ぶ処理の中に、先の意味でのフェアの尊重が組み込まれてる点をもって、
上の増やす働きは教育で十分賄える、
それどころか、教育があるのに少ないのはおかしいとすら言えるはずです。


そもそも、現行の教育は、
民主主義に資する教育を謳いながら、その実、

整合性を尊重しない者、
非を認めない者(トライアルアンドエラーの阻害要因を捨ててない非プロフェッショナル)、

つまり、議論や主張機会の悪用へのケアを欠いた者が政治のプレイヤーに見られても、
反応が鈍感な社会を齎してるレベルです。

整合性を尊重しようとして表層的整合の追求に堕す、
局面の代替不可能な固有性による加工かどうかと無関係に、嘘や演出を肯定否定する、
外在場の歪みに泣き寝入りはしないものの、場の代替不可能要素にしか応じないスタイルとは無縁、
できるだけの事をしたが駄目だった的形に持っていこうにも、置かれてる場と注力バランスが不整合、

そうしたパターンも教育で防げるよう、場の本質の保障に力点を置く教育に替えましょう。

ご支援の程よろしくお願い致します。