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通用してない部分を潰す働きの弱い知性や倫理が世の割り振りに影響力持つ有害事態における改善対象は、具体化の精度不足への対応能力が実力認定と関係ない文系界

2021-11-001

理解は対象に関する、抽象と具体の関係構造を、確立できた感(通用が行き渡ってる感)へと持ってく処理に過ぎず
(より確からしいものが取って代わる運動性への大した理由のない阻害が問題となる)、
実力は、獲得してるその構造の、現実が持つ複雑さへの通用具合であると考えますが、


文系者が近代性パラダイム
(下で言う後者の維持への志向が埋没させられる為、文系的局面での抽象化具体化の精度は最大化されない)に大した理由なく留まってる
(表層的事情にも応じた結果の獲得を忌避しないが故の、いらぬ特化な生)せいで、


理系的局面では、同種の他との差異要素の捨象次元の維持が、
文系的局面では、同種の他との共通要素の捨象次元の維持が、
(特に、対主観でのそれが、)通用の行き渡ってる状態(選ぶに値する状態)の保存された変化不変化
(精度最大化された抽象化具体化の交互反復)にとって必要である、

という話(局面と着目無視との合致志向)に学問界ですらなっておらず

(例えば、自身を棚に上げるせいで自身を個々具体に含めない実力低下事態が、基本的な客観化処理で回避できる理系域と違って、文系域では知的上層ですら珍しくない、

例えば、社会的ポジションの自生系割り振りも含むような、広義の対制度での、修正の必要な部分の把握に際して、そのような変化観は踏まえられてない)、


対文系での必要な捨象(通用を行き渡らせる処理)を欠く事になって、
具体形パターンを網羅し、それらを個々具体とする抽象次元(特に、それらに通用する原理なり説明なり)を獲得しようにも、
具体化条件が異なってるだけのもののみを集められるような形で、情報に開いておく、という状態を対文系では達成できない、

(上で言う後者の維持によって可能になる、同種認定なり、具体化精度の低いものへの補完や廃棄、原因究明なりを、
欠いたままの対象位置づけなのに満足してしまう、という意味で、理解の確からしさが頭打ちになる、


そのレベルに留まってない人を探す方が現状難しいだろう、文系の知的上層が、対処反応の浅知恵化の、

特に、表層形反転で済ませる構造に至っては、アリストテレスの時点で後世に甚大な影響を与えたと見なして良いようなものなのに、今なお修正対象になるどころか常態化してるそれの、
原因であるそこを速やかに修正してくれれば、

教育内容の書き換えに繋げる事すら可能な、彼らの持ってる影響力を踏まえると、


綱引きレベルでしかなかった理想現実関係が、上の変化観に落とし込まれる、
自身を棚に上げるのを避けるフェア志向すら疑わしい、都合の押し付け合いの反映でしかなかった非難対象選定が、後述する主体像も含まれる上の変化観と整合的な表層形からの乖離部分に限定される、
そうした刷新をはじめ、世界が質的に変わる可能性もあるだろうに、

修正点であるそこを彼らに対してどれだけ指摘しようとも、非を認めず、余裕があってなお修正しないまま、
得た地位に居座り続ける浅ましさや、より良い地位を得る機会を手放さない欲深さが、見られるだけのパターンも十分疑える)


また、実力不足の者に自己判断をそうせざる得ない場合は別として、控えるよう要請する(マニュアルに頼ってもらうなど)、
同時に、自身の注力傾向や状況的な必要性と重なる、かつ、余裕があるならば、実力を上げにいくよう要請する、

この内容(割り引きの過不足修正)の、ポジションや具体的有り様の割り振りから成る秩序作用(場に置かれた者への具体化作用)も、
自分に対して働かせるケース含め、文系域では少なくとも機能してない、

そう言えるのでないかと思います。




なので、できれば自分が諸々(自分自身込み)への強い影響力(修正きかないレベル)を行使してしまう前に、


具体形パターンを網羅してる抽象具体関係構造という理想状態(何ら限定されてない状態)の割り引かれ方の過不足(具体化の精度不足)に対し、修正対象(帰属修正の余地)として反応する、


つまり、主体ごとに異なる有限性形態の傾向(注力傾向や時空事情など)が、
内在外在の代替不可能化させた固有の事情(割り出すのに同種の他との共通要素の捨象が必要)にしか応じない主体像

(その像における行動原理は、歴史性の中身として常に起きてる、抽象化具体化の交互反復を、精度最大化させた場合の帰結として獲得されてるものと言える)の反映形から乖離してる程度を、

乖離してる程、その主体にとって尊重に値するものを尊重できてないという的外れ具合が強まり、その意味で信頼性が下がる為、主体を非難する際のポイントとしつつ捉える、


これが自他に対してできてやっと、既存権威や自己判断への妄信なり反動反発なり、
表層性に振り回されてる状態(表層的な事情を代替不可能的に扱ったり、その逆)、
つまり、負わざる得ないだけの確からしさを持たない振り回され(いらぬ低通用性)から解放されるとのイメージを、

近代性が土台となってる為にその獲得に繋がらない既存の教育とは
(いらぬ不幸の根源である、具体化精度を無視する文系者達を、量産してきた既存の教育が、先の後者の維持を育成する内容へと替わるに越した事ないけれど、とりあえず)
別口として、押さえるべきと考えます。




例えば、より通用領域の広い方を選ぶ(肯定否定反応の中身)際の観点自体について、より通用領域の広い方(確からしい方)を選べてないなら、
肯定しようが否定しようが曖昧化しようが的外れなのに、

観点設定という具体化の精度問題をスルー(近代性パラダイムはこれを強化)しながら、
当然、的外れなものとそうでないものとの間に、通用具合に合わせた扱い差をつける事もなく、
それら表層形で騒いできた(表層形の固持や反転、あるいは、二択的短絡さ自体への表層形反転)のが、これまでの文系者なわけです。


水の流れを制御するかのごとく、より確からしいものが取って代わる運動性の流れ方に限定を与えてる枠組みの一つに生も、個々主体の有限性形態(できる事できない事の有り様)もあり、
そこでは、枠組み自体も、その運動性にさらされてるという質的側面が言えるとして、


その側面の現れの一つであり、かつ、その運動性への阻害を最小化させてるもの、

特に、その運動性を無限性と見れば、有限性と十全には向き合ってない状態をも意味するだろう、その運動性以外のものにも頼る認識をもって、
その運動性を阻害する形で知性や倫理を、つまり、通用してない部分を潰す働きが弱い知性や倫理を持ち出し、知性の権威や倫理の権威を振りかざしさえして、
世で生じる割り振りを、その運動性から引き離してしまう有害事態に対し、抑える作用を持つものが、


局面と着目無視との合致を割り振りに先立たせるという、
量的距離の話でしかない表層性に振り回されるのを拒否してる形、ひいては、加工自体は不可避と認めつつもその過不足については忌避してる形の観点設定、
さらに言えば、特化の過不足を忌避した生有り様であると捉え、

文系者なのに対局面はじめ、固有性を代替不可能な要素だけから成る状態で取り出せない捨象能力の産物をごり押ししてる事例に遭遇する度、
都度、過去の遺物とされるべきものとして位置付けていきましょう。

ご支援の程よろしくお願い致します。