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2699文字、理念や権利を悪用させない為に必要なものについて

2024-8-002

文系事象についても、内在性質と外在性質の統合結果として現象を捉え、両性質の取り違え具合を検討するタイプの理解力の欠如
(外在性質の取り違え具合の差異があるではなく、例えば、歌いたいように歌ってるとして、

それをそれが可能な局面であるかそう取り違えてるだけで、後者の場合、具体化精度が低いとの扱いを不当認定してしまうし、
この種の取り違えがフェアでない人の感情選抜や意見選抜について言えると解するのではなく、

外在性質に合わせる事による限定を受け入れるか受け入れないかの二択があると解する勘違い、
認識場を外在性質として見た時の、場の表層を拭うだけである方法的懐疑や現象学を含め、外在性質を肯定するにせよ否定するにせよ取り違え具合という内実を不問のまま扱う実態主義も原因の一つと思われる)が、

その弊害として、差別否定や平和といった理念が帰属修正でなく、帰属操作の加害被害立場の反転に利用される事態を許してると考えます。
(不当な扱いを受けた事例をもって、立場によらず奪う事を認めない方向に向かうのではなく、
奪うのを正当化する為に立場が利用されるのを認める方向に向かう傾向があるのに、

原理の割り出しも分類の特定も帰属修正である以上、帰属修正を先立たせてないと学問レベルでは機能しないと言える知性について自負がある場合、
林檎を数えられないのに蜜柑はできてるつもり的な原理不在が文系領域に関して言えてしまう為、
前者方向に向かわせてないタイプの倫理教育は文系の知性教育を阻害しているし、そのタイプの有り様非難に知的権威を認める必要はないと解しましょう。)



例えば、肉体的痛みも状況把握により無視可能な時もあるわけで、精神的痛みに至っては妥当不当判定が問題の過大評価過小評価に繋がる為、
フェア志向(場の取り違え最小な個別性に即した扱いへの支持)をもって妥当不当判定の確からしさを上限化してるしてないの差異を検討しない場合、

つまり、問題が発生してるという情報から、ある事態という内在性質とある主体にとっての位置づけという内容の観点から成る外在性質に遡って、両性質の取り違え具合を検討しない場合、
同じ事象であれ反応は人によるという事実を踏まえた多様性確保は、内実確からしさの上限化(両性質の取り違え最小化)を論点とする事による表層形開放でなく、
問題の過大評価過小評価に付き合うよう強いる泣き寝入り強要を意味してしまうわけです。


なので、問題に対する評価をそのまま反映可能な理念や権利が、内在場や外在場の取り違え最小な個別性から乖離した秩序の保障として働くのを防ぐには、
場の取り違え最小化させた個別性は場に置かれてるものに負わせて良いという理解

(局面の取り違え最小な性質と着目無視設定との合致の下での対他者である平等、及び、対自己である自由の採用)、
観点の取り違え最小化でもある代替不可能な内外事情にしか応じない主体像であるかどうかによる評価、これらを伴わせる必要があると認め、

認めない人は獲得から搾取部分を取り除く能力が評価される世界でなく、帰属関係の操作が可能な奪い合い世界を支持してる形である為、
理科の実験のセットアップに失敗してる小学生も、ドーピングなり審判買収なりによる獲得を許してしまってる運営も、
取り出すべき差異の取り出しに失敗してる点では同じ、という意味での知性不全が、認めないという形で現れてるに過ぎないと見なしましょう。



例えば、高校生がテストに向けて暗記をしてる場合、テスト中に思い出せなかったら覚えた事にならない(覚えたという仮説が検証され否定という結果になった形)ので、
テスト中という場(具体化条件)にも通用する状態を達成しにいくわけですが、

構造的には、現代日本の常識、百年前アメリカの常識といった個々具体から、
特定時空性による加工を受けてない抽象状態を導く処理における、具体化条件のバラエティの射程を広げる話


(抽象状態がカバーできてる領域を上限化し、引き受けざるを得ない特定時空性の取り違えを最小化したものと統合した結果の常識は、修正余地がなく受容に値する為、
言い換えると、有限の与件性の現れである限定前後構造が、より確からしいものが取って代わる運動性の受容阻害を最小にしてる、

よって、冒頭の二択に相当する、有限性から目をそらすのも、検証されてない仮説を真に受けるかの如く修正余地なさを持たせる前の有限性を受容するのも否定されてる、
つまり、現実切り捨てや理想切り捨てに誘導する哲学に惑わされる事なく、理想を割り引く程度が最小となるように現実を成立させてる、という意味での解決状態を達成してる為、
実際の常識との差分である付き合わなくて良い部分が割り出せる)と同じですし、

置かれてる場に通用させ続ける存在課題を生命という形式(少なくとも、化学反応の円環連鎖)について展開する生における、
通用しない場を減らしたり齎さないよう努めたりする側面(遺伝子レベルも学問や宗教の規模も込みであり、
問題に対する過大評価過小評価はフィードバックの上限化機会を逸してる)にも言えるように思います。



例えば、林檎を見た時に、実際には一面しか見てなくても理解としてはあらゆる角度から見たのと変わらないとか、自分は好きだけれど他人もそうとは限らない点を認めてるといった、
客観化方向に持ってく処理については、具体化条件のバラエティに通用させる働きを取り込む一方で、

好き嫌い等がその人である限りそうならざるを得ない(雨が降ろうが槍が降ろうが引き受けざるを得ないという意味で、具体化条件のバラエティに通用してる)と言えるには、
代替不可能な内外事情にしか応じない実存の下で判断されてる(先の解決観と整合的なこの実存の帰結かどうかと無関係に失敗や未解決を否定肯定するなどの、
この実存である事以上を求める過大要求な知性倫理美意識も、この実存すら求めない過小要求な知性倫理美意識も、

ひいては、この実存の集積から成る場、したがって、存在するのと引き換えでない要素を存在に帰属させたままの個々事情を根拠とする帰属操作的獲得が排されてる場の、
取り違え最小な性質が反映されてる秩序の達成要求から見た、過不足な要求の反映である社会像に与する知性倫理美意識も形骸と見なし、
この実存を具体化条件としてる、つまり、この実存に合わせてる)必要があるのに、

この点についてはパラダイムレベルで不問とされてるわけで、観点に対する評価の形骸性は、
具体化条件のバラエティに通用させる働きがこの働き自身に対して働いてない結果の事態であると解せるように思います。

ご支援の程よろしくお願い致します。