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政治理論とテキスト解釈理論を重ねつつ、近代パラダイムから脱した平等像をそれらの内容にしてみた話(自由や平等は、ある種の歴史観から切り出されるとの仮説込み)

2020-7-001

例えば、自由概念が近代パラダイムの縛りから解放されてる状態について語る際に、近代パラダイムの産物な形式を妄信的に用いてたら、
林檎を数えられないのに蜜柑を数えるのは十全にできる的な勘違い(確からしい抽象次元の不在)がそこにはあるわけで、十分には語れてない事になるはずです。


特に、対主観において、同種の他との差異要素の捨象によってAさんにもBさんにもまだ見ぬ誰かにも共通する要素を取り出しにいく、という内容の普遍通用性に確からしさを見る方向に特化し、

同種の他との共通要素の捨象によって、同種の他とは異なる事を意味する要素に、
つまり、同種の他とは違うとの意味でそれがそれであろうとすると雨が降ろうが槍が降ろうが引き受けざるを得ないものに実質を与える、という内容の普遍通用性に確からしさを見る事を埋没させてるタイプ
(確からしい抽象次元の不在)の論理行使に、文系の知的上層すら疑問を持たない
(リベラルやリバタリアンはそれぞれ、その特化性や埋没性を特徴としてると言えるだろうに、普通にいる)のは、


抽象次元に遡ってからその抽象次元が引き受けざるを得ない具体化条件を割り出し付し直す能力
(理想と現実の排安易な関係に相当する、何ら限定されてない状態の準備と引き受けざるを得ない限定条件の割り出し、この両者の最大限化)の不在や、
形式や帰結は場の疑似でない固有性(精度の高い具体化条件)が損なわれないように組み上がってる場合に肯定されるとの理解の不在が原因でしょうが、


同種の他との共通要素の捨象に不断にさらされてないものが始点や文系的局面での根拠として持ち出されていても修正されない近代パラダイム
(固有性の内実を確からしくする働きがない事による弊害に許容的な近代人化)が、

それら不在(語りの形式の形骸化に対する鈍感さやその下での断罪とも関わる、
場の性質に対する代替可能要素削ぎ落しの意味での深掘りによる表層形変容、
例えば、認識場なり内面世界なりの上に置かれたものとの関係改善、と関係のない表層形硬軟論(注1)もその現れ)を齎してる

(例えば、硬軟も形式と見て、その程度は場が決める事であり、曖昧さについても、
その程度が局面等に即してると言えるなら内実が確からしい、言えないなら内実が確からしくないと見るべきを、
そこの差異はもちろん、内実を確からしくする働きとは関係なく肯定否定するという方向性を近代パラダイムは強化してる)わけで、


何らかの概念や理念の真正像を語るには、少なくとも枠組みとの距離の取り方(枠組みインストール問題)に関する確からしい原理の獲得が、その条件になる
(与えられるものを妄信的に受け取る被教育態度では条件を満たさないので、
代替不可能な内外事情にしか応じない主体像でもって、情報なり能力なり可能性なりの獲得するしないを決める生有り様が必要)という事でしょう。




例えば、平等が機会の平等や結果の平等といった個々具体の次元に留まるのも、場の本質の下の平等という抽象次元に遡らないからであって、

子どもなりの最善や怪我したスポーツ選手なりの最善等、それぞれの条件における最善からの乖離を誰もが咎められるし、そこしか咎められない
(乖離でないできないや失敗は、他者が負わされるに値するもの扱いになる)、
Aをするべきだとしても余裕がない時には妥当でないかもしれない、

こうした理解と整合的でない平等観も、何ら限定されてない状態に対する割り引きを、
有限の与件性を踏まえた場合での最小とする、代替不可能な内外事情にしか応じない主体像
(内在場と外在場の割り振り原理の代替不可能化に分解可能)に限り、その帰結を最善とする方針を採用できてないからと言えます。



この平等に関する問題はおそらく、テキスト解釈の理論にとって致命的と思います。
過去のある場所の価値観を、現在のある場所の価値観から断罪したり、過剰に免責したりが防がれるかどうかに関わるからです。

(歴史の観点からも見るなら、例えば、仮説と実証の関係や言葉の意味合いなりニュアンスなりの変遷から推測できる、
抽象と具体の価値対等の下での抽象化具体化の交互反復として、歴史性はあり、
抽象化具体化の精度が最大化されてる状態に近い程、その歴史展開は通用が行き渡ってるという意味で選ぶに値する、言い換えるなら、そこの遠近が肯定否定の根拠に相当する、という歴史観は、

上の平等観の拡張と見なせます。
むしろ逆に、抽象重視や具体重視の類とは異なるその歴史観から文脈に応じて、
課されてる条件が異なっていようと最善で繋がる平等観や、具体化精度の低いものまで抽象化の対象にする改悪フィードバックによる抽象次元の通用領域喪失を不自由と捉える自由観が切り出される、
という抽象具体の関係構造として解するべきなのかもしれませんし、その歴史観はさらに、

より確からしいものが取って代わる運動性を内容とする無限性が、自身たるべく有限性をフィードバック対象として要請してる形へと遡らせる事もできると考えます。)


また、民主制に対する修正像(ソクラテスの事例の時点で呈されてるはずなのに埋没気味な疑念への解答)でもあるだろう、次の理解から成る政治像(政治理論)、
社会も場であるように内面世界も場であり、場での整合はその場その場の疑似でない固有性の保障が内容である時肯定される、
あるいは、管理者的立場もプレイヤー的立場も、場の上に立ち上がるものがその場の疑似でない固有性を損なわないように組み上がるよう、それぞれの立場から協力する関係であり、その観点から他方に要求できる、

それは、例えば、オンラインゲームの管理者とプレイヤーとの関係を想像すれば、
テキスト解釈の理論に重ねる事ができる(両者を個々具体として扱える)と考えます。
(管理者への先の主体像の要求、プレイヤーへの判断選抜のフェア化の要求などにより、
有限の与件性に帰属してるとは言えない、負わされるに値しないものの発生を防げるはず。)


つまり、政治像(例えば、全体主義批判の内容)がそれでない人のテキスト解釈(対表現一般に拡大可能)は、対象に対する適正な接し方を原理レベルでは持ってない
(その場において価値のある事と着目無視との乖離、言い換えるとアンフェアに開かれてる、という意味での不平等により、
非対等性自体が否定されてたり非対等性の肥大化が生じてるなど)と見なし、距離を取りましょう。



注1(資本主義を批判しながら、先達の批判点を踏まえない的な有り様への疑問として)、

ちなみに、資本主義は(民主主義も)実態主義であって、場の割り振り原理(に反映される個々事情)に対する代替可能要素の削ぎ落しが別途必要、という構造は、
現象学にも言えてしまうイメージ(フッサールはもちろんハイデガー後期も今のところそういう印象)なので、

どちらも、深掘りでない表層形硬軟論における開かれ系として批判されるべきもの、という位置づけです。


注2(上の注も含め、千葉雅也さんの乗り越え概念や芸術論等のツイートを反論的に踏まえて、ツイッター参照)、

課せられてる条件の中に属性もあるので、条件が異なっていようと最善で繋がる(各々がどう扱われるかは場次第)平等観において対象の振る舞いに関し問題になるのは、
代替不可能な内外事情にしか応じない主体像(理想に対する、有限の与件性を踏まえた割り引き最小化)であるかどうかであって、

属性を捉えるだけでは解釈が表層的(同種の他との共通要素の捨象に十分にはさらされてないものを根拠扱いしてる)な気がするわけです。

ちなみに、内外境界(有限性)は遠近や偏りの発生も意味してると思うので、
表層と本質の間の差異は、有限の与件性に遡れるのでないかと推測してます。


6-003で、

例えば、包摂に対する肯定否定(全体主義批判によるリバタリアン擁護など)がこれまでのようなものしかなかったのは、社会も場であるように内面世界も場であり、場での整合はその場その場の疑似でない固有性の保障が内容である時肯定される、(略)こうした理解の不在故~

こう書いたのですけれど、社会も個人も個々具体とする抽象次元に遡ってない、という意味で既存の全体主義批判は解釈が表層的だという話なわけです。


芸術家は存在性を演出的に発現させるフィルターへと自己を仕向けてると言えるとすると、
先に書いた、問題は代替不可能な内外事情にしか応じない主体像(理想に対する、有限の与件性を踏まえた割り引き最小化)であるかどうか、
という論点がそのまま言える(存在性に対する割り引き問題)し、上で言う場の固有性保障がその主体像保障になってるだけとも言えるので、

既存の全体主義批判的な内容を語りながら、芸術に対する自身の解釈が表層的でないと言い張るのは、
林檎を数えられないのに蜜柑は十全に数えられると思ってる的な形でないかと思います。

ご支援の程よろしくお願い致します。