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制度はじめ、有り様の採用根拠として自由や平等といった理念を持ち出す際に、先立たせるべきものについて(学歴問題等の、教育論バージョンあり)

2022-9-005

自由や平等を制度はじめ、何らかの有り様の採用根拠として持ち出すにしても、
何を問題発生状態と見なしてるのかが、それら概念の内容に反映されてしまうので、

下に書いたような理解が、自由や平等といった理念を持ち出す際に、先立つべき(理解と整合的な内容に、理念は捉え直されるべき)と考えます。


帰属に修正余地がある状態を問題の発生状態と見なす(もちろん、自己に関するものにも他者に関するものにも言えるし、強者に関するものにも弱者に関するものにも言える)、
有限性の与件性(内外境界の発生不可避性)、より確からしいものが取って代わる運動性、これらに帰属があると言える現象を、帰属の修正余地がない状態と見なす、
表層形が望ましいものであろうとなかろうと、そう言える現象でないなら問題の発生状態と見なす。


例えば、情報であれ能力であれ可能性であれ解決であれ獲得は、内在事情外在事情の代替不可能な要素にしか応じない主体像と整合的である時、問題は発生していない
(その主体像でないという理由以外で自他の有り様を否定するのは過大要求)、

例えば、内面世界であれ社会であれ、そうした場の疑似化を剥いだ固有性の下に場全体の有り様が整合されてると言える時、
場に置かれてるものが受ける扱いは受容条件(問題は発生してないとする条件)を満たしてる

(例えば、競走という場における何らかのアンフェアは、問われてる差異の下での整合を損なう、単なる性質把握失敗と見なす。

例えば、局面と着目無視との合致の下での反応は、取り上げる差異の選定に受容条件を満たさせてる形なので、
その合致の下に立ち上がってはいない知性や倫理は問題発生を含んでいて、なのに十全に機能してるかのように振る舞っていたなら搾取行為、糾弾対象と見なすべきだろうに、

客観視をはじめとする、同種の他との差異要素の捨象しか既存の教育では養われないので、
その捨象を要請してる理系的局面以外での合致の失敗は、教育の責任も大きい)。



何ら限定されてない状態を取り出す抽象化(具体化条件による加工を受ける前への遡り)、
抽象物が引き受けざるを得ない限定条件(置かれる場の性質)を割り出す具体化条件割り出し、
これらが最大限追求されてる場合、両者の合わさった現象は帰属の修正余地がないと解するとして、

理想と現実の関係がその最大限追求に相当してるのでないなら、理想が負う割り引かれには過不足が生じてる、
つまり、理想あるいは現実が負わされるに値しないものを負わされてる事態であって、


理想あるいは現実をその意味で不当に扱ってる人(文系的対象における先の最大限追求には、同種の他との共通要素の捨象が必要なので、対象がその捨象に十分さらされているいないの区別がつかない人、
例えば、市場や民主制において反映される個々事情、ひいては、割り振り原理が単なる実態主義であるケースに疑問を持たない人は該当)が、

自己なり自身の重視してる何らかを正当化(責任帰属の否定込み)してたら、
対象を不当に扱わない事に関する確からしい原理の不在故の形骸な尊重反応(むしろ、先の現象としての自己等へと持ってくのを自分で阻害してるのと同等)と見なして、
問題発生状態をそう捉えない事による振り回されを防ぐべく、修正対象扱いする(具体的な反応は、先の主体像を具体化条件とする)。


カントもニーチェも、理想切り捨てな理論面、現実切り捨てな実践面と見なす事ができ、ヘーゲルの歴史観も抽象化具体化の精度最大化を要求してないので、
彼らの流れを汲むものが見せる正当化なり尊重反応なりは、修正対象に相当する。




以下、投稿用に差し替えた冒頭部分

学歴で問題なのは、学歴の高さが現状、文系者にとって一番重要な能力を持ってる事を意味しない為に、
それを持たない知的上層、および、持たない人達によって方向付けられた社会の再生産を齎してる点と思います。

小学生でも取り出したい差異があるなら、同時スタートなり、同挑戦回数なり、必要な枠組みを組むわけで、
既存の教育は、枠組みの組み方に失敗してるというより、取り上げるべき差異を分かっていないのだと思います。


実際、既存の教育論は、いらぬ特化を避ける(解決よりもこれを優先する)生を、教育の受け手に要求していません。
したがって、展開されるのは、条件変化に必要なだけ応答できる状態を保ちながらの対常識なり対次善の策(過保護の否定込み)なりを持たせずに済ましてしまう教育、
内在事情外在事情の代替不可能な要素にのみ応じる主体像と整合的な獲得喪失しか肯定しない(フェアを越えた自他救済の否定込み)評価基準を持たせずに済ましてしまう教育であり、


内実の確からしさ差異を区別できる理解力(安易な思考展開の受容を防ぐ、この水準でのいらぬ飛躍に対する敏感さ)、
内実が確からしいならその反映と言える表層形は許容する開放性(表層形断罪の否定、変化への過剰抵抗の否定も含むそれ)、
対文系でのこれら(同種の他との共通要素の捨象に十分さらされている事が、内実が確からしいと言える条件)を、

取り上げるべき側面(ましてや、文系者にとって一番重要な能力、あるいは、文系者におけるより確からしいものが取って代わる運動性を阻害しない受け皿像)として見てないのは明らかと思います。


なので、より確からしいものが取って代わる運動性を阻害しない(観点設定にもその運動性を働かせた)帰結としての有り様へと個々人も世界も近づくよう、
既存の教育論を一掃し、以下の理解と整合的な方向に教育(個性や平等、管理や安易等の概念の中身)を修正しましょう。

ご支援の程よろしくお願い致します。