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対歴史性での誤解からくる生の肥大化について、時事を踏まえ、平和や繁栄の希求在り方にも振れつつ(+打倒カントに挑戦)

2022-2-005

内実が確からしくないものよりも確からしいものの方が選ぶに値する、という話が上位になければ、
望ましい表層形と望ましくない表層形、という対比構図は資質由来にせよ環境由来にせよ、
ドーピングによる金メダルやご都合主義が着飾ってるだけの知的雰囲気といった、分捕り(帰属の操作を修正する力が弱い状況)の原因になってしまう。

逆に言うと、通用領域の広狭と確からしさとの相関を、内実に対してそれが適用されてるケース、表層形に対してそれが適用されてるケース、この両者の間に適用し、
かつ、前者の方が確からしいとの判定を下せる主体の下では、原因にならずに済む。

これは、望ましい表層形として、平和なり繁栄なりが位置付けられてる場合でも言えるように思います。

理想状態を上手く思い描けない(抽象化の失敗)、及び、現実をもって理想を割り引く程度が過大過小となる(具体化の失敗)、
これらが修正されてる状態で歴史が紡がれてるなら、訪れる未来は内実が確からしいと捉えましょう。

個人レベルであれ国レベルであれ、保障対象は望ましい表層形でなく、確からしい内実である
(その主体が獲得対象や喪失回避対象を、代替不可能な内在事情外在事情にしか応じない主体像を保障しつつ選抜してる、
別の言い方すると、引き受けざる得ない代替不可能な有限性に先立つ、つまり、それに帰属してない都合を持つ事なく選抜してるなら、

その主体は自身のいらぬ特化を防いでる、その意味で、自身の通用領域を最大化させにいってる形)との観点から、
管理なり干渉なりは肯定否定しましょう。



歴史上のある一点から他の一点を見て、そのズレ程度をもって肯定否定する、
対象を歴史性(ひいては、歴史展開に対する妥当不当評価)から切り離して捉え、扱うなどする、
これらを局面と関係なく(つまり、具体化精度を無視して、という事は下の歴史観で言うと、
例えば創造を謳いながら、対象の歴史性にいらぬ飛躍を強いる形で)展開する人は、


全てのもの(内外境界を持つもの)が、抽象化具体化の交互反復(歴史性)から成っていて、
その交互反復の表層形として、大きい変化という形も小さい変化という形もあるに過ぎず、
論点はいらぬ飛躍(抽象化具体化の不足)のない交互反復(つまり、内実の通用が行き渡ってる、選ぶに値するものであり続けてる)かどうかである、との理解(歴史観)がなく、

変化という表層形自体、不変化という表層形自体に対して過大に価値を見てる
(各場の疑似でない固有性に価値基準を委譲してない結果の価値押し付けであり、
自身が認識対象を置いて割り引いたり加工する認識場も含む、各場を個々具体とする抽象次元を持ててない、
言わば、林檎を数えるに対する数を数える的次元の原理化が不十分である現れと解せる)、

表層形断罪な地平(差別の類を糾弾してたら、同じ問題点を持ってるのに自分のそれは良いと言ってる、知的説得力を欠いた事態を意味する)の持ち主


(見かけだけが問題になる局面もあるというに過ぎないのに、その特殊性を普遍化させてしまってる飛躍含みな地平、
つまり、特殊でないものに大騒ぎする井の中の蛙的地平と同様に、原理抽出でも必要になるいらぬ飛躍除去が機能してない知的有り様)
と言えるように思います。



(同種の誤解だろう、場に合わせる有り様に対して場に合わさない有り様があるとの発想、
より正確には、場に表層的要素込みで合わせてる状態と場の本質にしか合わさない状態の二択が実態であるようなそれではない、
つまり、場の本質だけから成る性質に合わせてるとは言えない状態Aと、同種の他との差異要素捨象を文系的局面にも持ち込んで各局面の固有性を埋没させてるケース含む、同Bの二択が実態であるそれは、

内在の性質と外在の性質が合わさったものとして現象はあり、両性質が疑似化してないほど現象は確からしい、
この現象観の採用によって修正されると期待しますが、


割り引かれ忌避が生の肯定だと言い張る人や都合の悪さから偶々逃げれてる状態に解決像を留めてる人が、
生現象も当然含まれ、条件付きにせよ何かを負わされる事意味するその現象観を、拒否するケースまで射程に入れると、

都合の悪さへの過剰否認を、例えば、有限の与件性が踏まえられてれば生じないはずの反応を、抑えるのに必要なフェア志向について、
不当な扱いを受けるという現象の受け手に関する具体形パターンを、網羅してるほど不当性そのものの取り出しに近づくのに、
それこそ、自己絡みに対しても一旦無生物や概念等まで含む抽象次元に遡った上でその個々具体として位置付ける事によって、井の中の蛙的反応への抑制が期待できるのに、網羅が限定的という抽象不足のせいで、

言い換えるなら、不当性そのものの取り出しを過大に割り引いてる状態のまま、理不尽に関して語るなどを、不当だと解さない段階にあるせいで、自分にだけ都合の良い世界を望んでる形から遠ざかる力が弱く、
当然に都合の押し付けをいらぬ飛躍として取り出す能力が不十分である事の裏返しとして、必要性を覚えてない、

この事態が修正される必要ありと推測される為、下で言ってる近代以降のデフォルトである後者地平に留まる事なく、
この場合で言うと、そこの受け手想定に関する広狭に、通用領域の広狭と確からしさとの相関を適用してる内容でもって、獲得対象や喪失回避対象の選抜を評価してるのと同等と言える前者地平に、
移行する話にまで遡る必要が出てくるように思われます。)



個人の歴史性で言うと、固有性を、いらぬ飛躍なく展開させた歴史(代替不可能な内在事情外在事情にしか応じない主体像)の帰結としてのそれかどうかで評価しない人は、
その固有性の反映物(感覚なり主張なり生有り様なり)に対しても、いらぬ飛躍を十分には見い出せない理解力しか持ち合わせてないと言えますから、


同種の他との共通要素の捨象を用いた抽象化具体化の、質や量への拡張時含めた不足を、修正余地(いらぬ飛躍そのもの)としてる地平

(修正を、選抜に拡張した帰結が、内面世界含む各場の疑似でない固有性に即した割り振りへの、
つまり、代替不可能な具体化条件によって具体化されたものへの支持の意味でのフェアであり、
交互反復に拡張した帰結が、文系的な歴史展開や論理展開の妥当性であると想定してます)から乖離してるせいで、

自他の対文系事象が持ついらぬ飛躍を十分には取り除けない(自身の浅知恵も修正できない)、
したがって、原理の取り出しにも限界持つ(そもそも、いらぬ飛躍の発生把握に限界ある以上、確からしさに対する阻害を見落とすわけで、阻害の原因特定に関しては前段階で躓いてる)理解力、

特に、同種の他との差異要素の捨象ベースの論理を、理系的局面と同じだけの内実の確からしさを齎すものかのように、文系的局面で持ち出す(文理の局面差異を捨象してる)通念的な論理観である限り、


言い換えるなら、分離(個人の精神や国家の権威や科学の在り方)の成功体験によって強化された内在不問外在軽視な解決像(近代性)、
具体化精度を問うてない分離物を統合対象扱いする(実験精度の低い実験結果までフィードバックしてるようなものである)歴史観、

この両者を地続きと見なすとして、デカルトヘーゲル地平(これを上で言ってる不足を、気にしない地平と見れば、
同種の他との差異要素捨象がベースの理性像を選抜作用とする、理想切り捨てと現実切り捨ての枠組みを提示したように見える、カントを入れる事も可能な気がします)の外に出ない限り、

(ここで言う外は、上で言ってる不足修正の個々具体として、理想現実関係や世界からの主語切り出し含む主語述語関係の、論点もあると捉えれば、プラトンアリストテレス地平の外でもある)


表層形断罪の次元でしか対象と関われない(負わせ負わされを引き受けざる得ないものに抑えてる先の主体像のような、内実の確からしさをもって対象を、
例えば、自他の不完全さを肯定する事ができない)し、自身の生の肥大化を抑えられないとも言えるはずです。



肥大化した生の集積は、需給成立の可能性が高まる結果、政治経済の、ひいては世界の肥大化を加速させるでしょうから、
自他の生の肥大化を修正する働きかけを、負わされるに値しないものを負わせてくる
(精度の低い具体化を強いてくる)環境への本筋的対策(都合の押し付け合いに矮小化させない対応)と捉え、


具体形パターンを可能なだけ多くカバーできてる状態の抽象次元へと一旦遡ってから、代替不可能(同状態)な具体化条件を付し直す処理(いらぬ飛躍の除去)を、
同種の他との共通要素の捨象を用いては展開できない人に、自分の対文系での理解力は十分高いと勘違いさせてしまう既存の教育環境
(哲学科すら、対文系でのその処理を、例えば、特定時空性の付し直しに関して育成しない為、絶対主義と相対主義の二択地平の外に出てない人を社会に送り出してる)から、

展開できる理解力が評価される教育環境(社会の知的環境)へと変わるよう、教育者ポジションに対して、
ご都合主義が着飾ってるだけの知的雰囲気で評価されてしまう分捕り空間の責任を糾弾しつつ、働きかけていきましょう。

ご支援の程よろしくお願い致します。